宇根寛
(2021年1月8日刊行,講談社[講談社選書メチエ・741],東京, 251 pp., 本体価格1,700円, ISBN:978-4-06-522384-0 → 版元ページ)
最近「測地学」とか「地図作成」の新刊が多くないですか.
宇根寛
(2021年1月8日刊行,講談社[講談社選書メチエ・741],東京, 251 pp., 本体価格1,700円, ISBN:978-4-06-522384-0 → 版元ページ)
最近「測地学」とか「地図作成」の新刊が多くないですか.
原稿執筆時に「上述したように」とか「前章で説明したが」とかつい書いてしまうクセがワタクシにはあるようだ.しかし,読者にとってはこういう参照表現はきっとイライラのもとになるにちがいない.ましてや「賢明な読者ならおわかりだろうが」などと書くのはケンカを売っているにちがいない.その解決策はとてもシンプルだろう.「上述したように(第〜章〜節参照)」とか,ノンブルがフィックスされている場合は「前章で説明したが(p. 〜)」と書きさえすればいい.要するに,本の “どこ” を読めばそれが示されているかが明記されていればよい.
タチが悪い書き手ならば,「すでに説明したように」は単なる口癖であって,著者本人でさえどこに書いたかを把握していないこともきっとあるにちがいない.そういう場合は,賢明なる読者ならおわかりだろうが,軽やかに読み飛ばせばいい.
ワタクシ的には,ちょっと数学っぽい論文を読んでいて,「この定理の証明は自明である」と書かれると血圧が少し上がることもある.さらっとケンカを売られているような気配を感じる.それくらいだったら「この証明を示す余白は今はない(ページ超過料金のため)」とか書いてくれたらいいのにねえ.
また,商売上手な書き手なら,「私の前著『◯』の第△章〜◆節 pp.※〜※で詳細に説明したが」とことさらに詳しく参照箇所を示して,ナイーヴな読者にその本を買わせるくらいの “悪辣” きわまりない販促戦術を弄することもきっとあるにちがいない.
Cf: HUFFPOST「「前も言ったけど」は自粛します。料理中の夫を注意した女性の漫画に反響」(2021年2月2日)
小林正弥
(2021年1月10日刊行,講談社[講談社選書メチエ・742],東京, 301 pp., 本体価格1,900円, ISBN:978-4-06-522230-0 → 版元ページ)
M・R・オコナー[梅田智世訳]
(2021年1月20日刊行,インターシフト,東京, 415 pp., 本体価格2,700円, ISBN:978-4-7726-9571-8 → 版元ページ|コンパニオンサイト|文献リスト[pdf])
生得的なナビゲーションといえば,ハロルド・ギャティ[岩崎晋也訳](2019年9月10日刊行,みすず書房,東京, 2 color plates + iv + 279 pp., 本体価格3,600円 → 版元ページ)を前に読んだな.
藤原辰史
(2021年1月30日刊行,創元社[叢書パルマコン・03],東京, 357 pp., 本体価格3,600円, ISBN:978-4-422-20295-2 → 版元ページ)
「農学栄えて農業亡ぶ」と言われればおそるおそる手に取るしかないな.それにしても,ふじはらさん,最近ものすごくたくさん本を書いてません?
Deborah G. Mayo
(2018年9月刊行,Cambridge University Press, Cambridge, xvi+486 pp., ISBN:978-1-107-05413-4 [hbk] → 版元ページ)
メイヨーさんの統計学本はどれも “破壊力” がありそうで. ハードカバー版をあえて買ったのはいざというときに投げr(やめなさい
ジャン・ボワヴァン[平野貴俊訳|小鍛冶邦隆日本語版監修]
(2020年11月20日刊行,アルテス,東京, 668 + lxx pp., 本体価格8,000円, ISBN:978-4-86559-205-4 → 版元ページ)
兵藤裕己
(2020年11月17日刊行,岩波書店,東京, xx+308+4 pp., 本体価格2,800円, ISBN:978-4-00-025326-0 → 版元ページ)
山崎まゆみ
(2020年12月10日刊行,文藝春秋[文春文庫・や-74-1],東京, 221 pp., 本体価格650円, ISBN:978-4-16-791620-6 → 版元ページ)
さくっと読了.温泉旅館はとにかくサイコーである.
Philip D. Cantino and Kevin de Queiroz
(2020年6月刊行, CRC Press, Boca Raton, xl+149 pp., ISBN:978-1-138-33282-9 [pbk] → 版元ページ)
序文40ページを読んだが,1990年の立ち上げ以来,ファイロコードがたどった “苦難の道” がしのばれる.先日の本屋B&Bでの夜噺でも言及したが,分類を系統に “従属” させようとするファイロコード派の野望は内外の抵抗にすり減ってきているような気がするんだけど.ワタクシが知っている1990年代初頭のファイロコード胎動期は既存のリンネ命名規約を置き換えようとする鼻息の荒さを感じた.そういえば,キャロル・ケスク・ユン[三中信宏・野中香方子訳]『自然を名づける:なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』にも,ファイロコード派をめぐる抗争への言及があったな:「ファイロコードというプロジェクトは,ヘニックが主張した厳密な分岐学的な命名方法をすべての生物に当てはめようとする」(p. 321);「真の問題点はファイロコードが分類学者による命名法に根本的な変更を迫っただけではなく,環世界センスへの配慮がいっさいなかった点にある」(p. 322).