【書評】※Copyright 2016-2024 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved
学名の仄暗い世界へ
Amazon.de から本日着便.書名は『命名の技法』で,動物分類学の「命名」をテーマで書かれた本.ワタクシは類書をほとんど知らない.著者 Michael Ohl はベルリン自然史博物館の研究員.分類学での「命名」をめぐる言語空間(Sprachwelt)の歴史的諸相に光を当て,動物分類命名の技法(技芸)についてさまざまなエピソードをたどりながら書かれた本のようだ.ドイツ語のできる分類学者ならばジャケ買いしたくなるにちがいない.でしょ? この本は造本も魅惑的.(そこですかっ)
第1章「Hitler und die Fledermaus」(pp.11-46)読了.第二次世界大戦中,第三帝国アドルフ・ヒトラー総統の命を受けた側近マルティン・ボルマンがドイツ哺乳類学会に介入して,コウモリ(Fledermaus)とトガリネズミ(Spitzmaus)の名前をそれぞれ「Fleder」と「Spitzer」に変更させたというエピソードを紹介.普遍的なラテン語の「学名」だけではなく,世界各地の国々で別々に付けられているローカルな「生物名」がどのような文化的・言語学的背景のもとに生まれそして変遷してきたか,それらをどのように把握するかという(本書全体に関わる)問題提起をする.
第2章「Wie die Arten zu ihren Namen kommen」(pp.47-84)読了.19世紀なかばにフランス人宣教師 Armand David が命名した中国のジャイアントパンダの学名 Ursus melanoleucus のその後の変遷をたどりつつ,生物分類学の二名法の歴史を振り返る.ラテン語・ドイツ語・フランス語が入り混じってもうタイヘン.
その後は,二名法,命名先取権,タイプ標本などの話題に.Fritz Clemens Werner『Die Benennung der Organismen und Organe nach Grösse, Form, Farbe und anderen Merkmalen』(1970年刊行, Niemeyer, Halle)なる本はありとあらゆる色彩・形状・数量のラテン語・ギリシャ語表現の辞典らしい.さらに,同著者による『Wortelemente lateinisch-griechischer Fachausdrücke in den biologischen Wissenschaften』(1956年, Geest & Portig, Leipzig)という語根辞典は1956年の初版以来,現在まで増刷を重ねているそうな.
しかし,学名は命名規約の法的問題だけにはとどまらない.たとえば,今世紀に入って流行している「新種命名権販売ビジネス」は BIOPAT のようなインターネット産業として存続している.そのような命名システムを利用して,個人名や組織名はてはカジノ名まで “合法的” な学名として登録されている.なぜわれわれは生きものの「名前」にこだわりをもつのだろうか.著者は新種命名をする分類学者の心の中を覗き込む:
Der Akt der Benennung ist für den Taxonomen weit mehr als nur seine verschriftlichte Naturerkenntnis und der Vollzug formaler nomenklatorischer Erfordernisse. Mit der Benennung einer Art fügt er dem Katalog des Lebens nicht nur einen weiteren Eintrag hinzu, sondern auch seinen eigenen Namen, der für alle Ewigkeit untrennbar mit der eigenen Wortschöpfung verbunden bleibt. In der Kombination aus der Vergabe eines Artnamens als Kulminationspunkt einer komplexen Hypothese über die Natur und der Addition des eigenen Namens beansprucht der Taxonom öffentlich und für jeden sichtbar des Urheberrecht an der Neuentdeckung. Die neue Art wird »seine Art«. (S. 75)
分類学者にとっての命名行為は彼の文字化された自然認識を命名規約の形式に則って実行するよりももっと深い意味がある.種を命名することにより,分類学者は生命の目録に新たな項目を追加するだけでなく,未来永劫にわたって固有の新語形成と不可分の固有名をも追加することになる.自然についての複雑な仮説の最終到達点としての種の名前に対して固有名を付けることにより,分類学者は自分にその新発見の先取権(Urheberrecht[著作権?])があることを誰もがわかるように公表する.そのとき新種は「彼の種」となるのだ.(p. 75)
第3章「Wörter, Eigennamen, Individuen」(pp. 85-112)読了.一世紀前のカリスマ古生物学者 Henry F. Osborn と彼の手足となって東アジア地域の探査を行なった Roy C. Andrews のエピソードから本章は始まる.ハリウッド映画〈インディー・ジョーンズ〉のモデル(のひとり)とされている Andrews が外モンゴルで発見した化石の一つが恐竜 Oviraptor philoceratops だった.その学名を直訳すれば「Ceratops が好きな卵泥棒」となる.たくさんの卵の化石とともに発掘された Oviraptor は他の恐竜(Ceratops)の卵を盗みに入ったところで悪運が尽きて化石になったと当時は考えられていた.
しかし,実際には Oviraptor は卵を盗んでいたのではなく自分の卵の世話をしていたことがのちに解明された.Oviraptor をめぐるこのエピソードは Andrews の伝記:Charles Gallenkamp『Dragon Hunter: Roy Chapman Andrews and the Central Asiatic Expeditions』(2001年刊行,Viking, New York, xxiv+344 pp., ISBN:0670890936 [hbk])にも詳しく書かれている.本章では生物に与えられた名前はどれほど実体と実態を正確に反映しているのだろうかと問いかける.命名規約上は生物学的にまちがっていてもいったん名付けられればそれを変更修正することはできない.とすると,生物の名前は実質的な内容とは関係のない,固有名詞としての単なる「ラベル」と考えるべきなんだろうか.
ここで,著者は個々の固有名詞(Eigennamen)とそれらを含む集合名詞(Appellativa)のちがいについて考察する(pp. 92-93).「バラク・オバマ」や「チャールズ・ダーウィン」という名前が固有名詞であるのは,それらが “個物” に付けられた名前だからだ(p. 94).“個物” でなければ集合名詞と言うしかないだろう.ここでの判断基準は名づけられた対象が「個体化(Individualisierung)」できるのかに集約される.
ここからは予想される通り,議論は種カテゴリーと種タクソンの存在論に関わる形而上学へと移っていく.Ernst Mayr の生物学的種概念に代表される種カテゴリーをめぐる論争(p. 97),そして Michael T. Ghiselin の「種個物説」が提起する種は “個物” か “クラス” かという論争を振り返る(p. 101).
種をめぐるこの論点に関連して,著者は「自然種(natural kinds)」の概念を取り上げる(p. 104).ドイツ語だと自然種という原語には「自然な等化集合(natürliche Äquivalenzklasse)」という集合論の一概念みたいに “解毒” された訳語が当てられてしまうが,どうやら著者は種は個物でもクラスでもない自然種とみなしてはどうかと言いたいようだ(p. 105).
本章の締めくくりは生物体系学とくに系統体系学への言及である.種の形而上学とは別に高次分類群の形而上学も議論の対象であると著者は言う.分岐学が擁護する厳密な単系統群(Monophylum)もまた見方によっては個物であり,他方ではクラス(自然種)でもありえる.
第4章「Typen und die Materialität der Namen」(pp. 113-144)読了.ずいぶん間が空いてしまった.著者は「なぜヒト Homo sapiens には “タイプ標本” がないのか?」という問題に光を当てる.Holotype に準じるタイプ標本を記載しようとした古生物学者 E. D. Cope のエピソードをまじえつつ,著者は「タイプ標本は typical ではない」と強調する.生物集団のもつ変異性 ― 著者は正規分布(いやドイツだからちゃんと “Gauß Verteilung” と書いている!)まで言及する ― を考えればタイプ標本の “タイプ” とは単なる Namensträger としての意味しかない.しかし,だからこそ重要なのだと言う.つまり,タイプ標本が果たすべき役割は,安定性をもたらし,混沌の中に秩序を見出し,連続性の中での参照となることであると著者は指摘する(p. 141).リンネ本人を Homo sapiens の Lectotype とするという主張があることを初めて知った(p. 142).
第4章まで読了したのが2016年の師走だったから,なんと一年半もブランクが空いてしまった.旅のお供として新幹線の中で第5章「動物名あれこれ(Das Panoptikum der Tiernamen)読了.本章では,奇妙奇天烈なラテン語の学名が次から次へと登場する.ポーランド語が織り込まれた31字の長ったらしい属名,Csiro(←CSIRO)やYtu(←You too)という属名.Gelae baen(← gelly bean)という種名.解読しきれないアクロニムやら暗号やら “愛の言葉” もあり,架空の事物が学名に織り込まれることもまれではない。つい最近論文が出た「キングギドラ命名問題」(参照:国立環境研究所「種の命名行為に関する再考:神話や架空の怪獣の名前を使うことが招く分類学上の諸問題」2024年12月10日プレスリリース)もおそらくこの文脈にあてはまる話題なのだろう。
一年以上のブランクが空き,英訳本(Michael Ohl[Elisabeth Lauffer 訳] 2018. The Art of Naming. The MIT Press, Massachusetts, xvi+294 pp., ISBN:978-0-262-03776-1 [hbk] → 目次|版元ページ)もすでに出てしまったのに,独語原書の続きを読んでいる.第6章「 “愛する妻にちなんでこのコガネムシを命名する” (»Ich benenne diesen Käfer nach meiner lieben Frau ...«)」読了.人名に基づく命名あれこれ.ディヴィッド・ボウイあり,アドルフ・ヒトラーあり,ビヨンセもあれば,シュワちゃんやスピルバーグ監督も.ああ,Plathygobiopsis akihito も登場している.ラテン語の性別があやふやな事例もあったりとか.お硬いイメージがある「学名の本」もこういうに書かれていればとてもおもしろいのにねえ.
続く第7章「 “一日一新種” (»Jeden Tag eine neue Art«)」(pp. 195-226)読了.生涯にわたって怒涛のように記載しまくり,新種を命名し続けた分類学者の列伝.やはり昆虫分類学者が抜きん出ているようで,「一万種超」クラスの大物が何人もいる.ガガンボ分類の大家 Charles P. Alexander は70年間に11,278種を記載命名したし,Francis Walker にいたってはなんと23,056種にのぼるさまざまな目の昆虫の新種記載をしたという.小蛾類の専門家 Edward Meyrick も14,199種を命名した.おそるべきスタミナと驚異的な集中力だ.昆虫分類学者,コワい…….
第8章「誰が種を数え,名前を付けるのか(Wer zählt die Arten, nennt die Namen?)」(pp. 227-262)読了.生物多様性の全貌を分類してきた歴史.続く第9章「ないものに付く名前(Namen für nichts)」(pp. 263-295)読了.架空の事物に学名が付く逸話の数々.ハナアルキとかネッシー以外に,精神疾患による妄想もある.ワタクシがいつも噺のネタにしているパン袋クリップ学会「HORG:The Holotypic Occlupanid Research Group」も事例のひとつにあたるだろう。
エピローグ「ラベルからわかること(Vom Etikettieren)」(pp. 297-298)読了.これでやっと最後まで読み終えた.ようやく本書の英訳本を心安らかに手に取ることができる.この本は「生物の命名」についての実例と歴史挿話がふんだんに盛り込まれているおもしろい本なので,日本のどこかの出版社(みす◯書房とかみ◯ず書房とか◯すず書房とか)が翻訳権を取って,ドイツ語ができて生物学史に通じて生物分類学に詳しい翻訳者を見つけて日本語訳を出してほしいな.よろしく.
三中信宏(2016年6月6日〜2020年3月1日逐次公開|2024年12月12日加筆修正)