『物語・大英博物館:二五〇年の歴史』

出口保夫

(2005年6月25日刊行,中公新書1801,ISBN:412101801X



序章:「新しく甦った大英博物館」と第1章:「創立とハンス・スローン」.大改築される前に一度は円形劇場みたいな“リーディング・ルーム”なる場所に入ってみたかったなあ.第2章「草創期とウィリアム・ハミルトン」と第3章「ロマン派時代とギリシア彫刻群」は19世紀までの大英博物館の発展ぶりを記述.ロゼッタストーンポートランドの壷をはじめとして,誰もが認める“至宝”が次々にそこに集まってくるようすは壮観だ.

続く第4章「ヴィクトリア時代の光と影」そして第5章「中興の祖オーガスタス・フランクス」は,19世紀の百年の間に,リーディング・ルームが建築され,自然史部門が独立するなど,大英博物館がさらに変貌していく過程を見る.急速に増える蔵書との闘いはいっこうにおさまらない.その格闘を取り仕切ったのは,マシュー・バトルズの図書館本『図書館の興亡:古代アレキサンドリアから現代まで』(2004年11月1日刊行,草思社ISBN:4794213530原書訳書)にも登場する,大英図書館の図書管理者アントニオ・パニッツィだった.彼の発案に沿って造られたのが,後のリーディング・ルームである.

本書の中でもエピソードとして関心を惹くのは,第6章「大英博物館を訪れた人びと」だ.ほとんど一生を大英博物館の中で過ごした一般人(準ホームレスも含む)も多くいる中で,当然のごとく名のある人びともここに集まった.南方熊楠のように通い詰めたあげく館内で暴力事件を引き起こした人物もいれば,サミュエル・ジョンソン夏目漱石のようにほとんど訪れなかった著名人もいた.続く第7章「困難な時代 — ふたつの大戦をはさんで」は,20世紀の戦火の中での大英博物館の生き残りとその後を述べる.最後の終章「大英博物館のさまざまな至宝」はいわばミニ・ガイドブックだ.


『私の敵が見えてきた』

多田謡子遺稿追悼文集

(1987年刊行,編集工房ノア,ISBNなし)

29歳で早逝した女性弁護士を追悼する友人・同窓生・同僚たちの寄稿を含む文集.この手の本は故人との関わりについてのパーソナルな想い出が書かれているものなので,内容そのものにとくに関心はない(というか“外部”の者にとっては理解できない部分が多い).ただし,社民党福島瑞穂党首や中西印刷の中西秀彦専務,あるいは松田道雄とか鶴見良行という名が見えるので,まあパブリックといえないことはない(出版当時と18年が過ぎた“今”ではだいぶちがうが).

 

それよりも,たった一つしか年齢差がないこの女性弁護士さんが体験した「時代」は確かにぼくも共有していたので,さまざまな文面の背後に見える時代的な“共通部分”を味わったりする分には疎外感はまったく感じない(そういうこともあったという淡い記憶の浮上).ぼくの実家のあるのは宇治の御蔵山というところだが,三中家が深草からそこに引っ越してきたしばらくあとに,多田道太郎家が近くに転入してきたというのも,母親の言葉によれば「京大のセンセがぎょうさんいやはる」御蔵山の土地柄を考えれば不思議ではない.

 

転入は偶然であっても,当然のことながら多田謡子さんが通った小学校はぼくと同じ地元の木幡小学校で,おそらくまちがいなく廊下ですれちがったりしたこともあるのだろう.ひょっとしたら集団登下校でいっしょだったかもしれない(記憶はまったくないが).しかし,ぼくはそのまま地元の東宇治中学校(京大宇治キャンパスに隣接)に進んだしたのに対し,彼女は中学から“付属”に行かはったので,小学校での約2年の同窓の後はまったく交点はない.接近してはいたが互いに交わりのない,いわば「捻れの位置」にあったということだろうか.

 

急死するまでの弁護士時代の愛称である“アラレちゃん”でも“ダンボ”でもなく,中学時代に呼ばれた“ベトナムおばさん”というニックネームの方がピンとくる.そういう中学生や高校生はあの頃は少数派ではあったが確かにいた.この追悼文集をブラウズしてみて,かつての「時代の空気」を思い出した.

 

追記)今朝の朝日新聞に〈多田謡子反権力人権基金〉の第17回人権賞の受賞者が決まったとの報道があった.グッドタイミング.[2005年12月1日]