『逝きし世の面影』

渡辺京二

(2005年9月9日刊行,平凡社平凡社ライブラリー552], ISBN:4582765521目次



【書評】

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「ほんの」1世紀半前の“日本”がどのような国だったかを,当時の来日した「外国人」の目を通して記録された多くの資料から復元しようとする意欲的な本だ.600ページもある大著だが,とてもおもしろい.

本書と並行して石川英輔の小説『大江戸妖美伝』(2006年2月23日刊行,講談社ISBN:4062132818)を読んだのだが,江戸時代末期の人びとの生活や武家の暮らしぶりなどについては両方の本で響き合う記述が多々ある.これは意外ではなく,むしろ当然のことなのかもしれない.オールコック『大君の都』など当時の資料の読み方や引用のしかたまで,石川英輔の「大江戸本」とそっくりなのは驚くほど.

第10章「子どもの楽園」を読む.ブリューゲルさながらに日本での〈子供の遊戯〉を詳しく記録した外国人記録者たちの驚きと好奇心とカルチャー・ショックが伝わってくる.続く第11章「風景とコスモス」と第12章「生類とコスモス」では,風景観あるいは生命観の“東西”の差異が外国人旅行者の記録文から明らかになるのが見えてくる.サイモン・シャーマだったらどう書くだろうか? 続く,第13章「信仰と祭」は,“八百万の神”にたじろぐ一神教の宗教観の対比が際立つ.

とりわけ印象的なのは,最終章である第14章「心の垣根」での全体の総括だ.「ああ,日本の何と美しくのどかなことか」(p. 447)と詠嘆する江戸時代の異国の旅行者の記録は,単なる思い込みでも幻影でもなく,事実の記録だっただろうと著者は考える.その上で,著者は「個人」という自我がつくる「心の垣根」の高さに東西の本質的なちがいがあったのではないかと指摘する.江戸時代に日本を訪れた外国人たちは,「西洋的な心の垣根の高さに疲れた」(p. 576)からこそ,心の垣根が低い,あるいはそれがまったくない日本のありように感銘を受けたのだろうと結論する.この対比のしかたはとても強烈だ.

「あとがき」で著者は言う:




私はたしかに,古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した.そして,それで今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって,闇雲に否認されるべきではないということも説いた.だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった.私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので,古き日本とはその参照枠のひとつに過ぎなかった.(p. 586)




近頃は伝統といえば,それはごく近代になって創られたフィクションだというのがはやりである.むろん,そういうことはあろう.では自分は過去とは無縁のまっさらな存在かといえば,そんなことは事実としてありえないので,伝統と呼ぶかどうか別として,自分とは過去の積分上に成り立ち,そこから自己の決断の軌跡を描こうとする二重の存在でしかない.(p. 587)



「過去の積分」というのは,なかなかいい表現だ.

本書は600頁を越える大著だが,中だるみすることなく,最後まできっちり読み終えることができた.当時の旅行者たちが遺した膨大な記録を読み解き,紡ぎあわせて,ひとつの一貫したストーリーをつくりあげたのはほかならない著者の力量だと思う.

なお本書は,1998年に福岡の葦書房という書店から出版された本の再刊.葦書房本は「和辻哲郎文化賞」を受賞し,順調に版を重ねていたらしいが,突如として絶版になったという.どうやら出版社側のゴタゴタが原因らしい(→このあたりの事情については,葦書房公告を参照のこと).

三中信宏(26/March/2006)