〈書評〉を書く文化環境

日本では「理系の本」を書評する人が圧倒的に少ない[と思われる]ので,新聞や雑誌でも「理系の本」の書評に出くわすことはあまりない.もちろん,短めの新刊紹介ならばまだ目にする機会は少なくないのだが,長目の書評となると毎月あたり片手で数えられるほどのものしかないように感じる.もともと長い書評をものする文化が日本にはないのかもしれないが,それにしても標的本をクリティカルに論じるような書評を書こうという姿勢(相関してそういう書評を読もうとする姿勢)が,とくに日本の自然科学系の読者層の間では乏しいように思われる.



ぼくがいつも書くような備忘録のような書評メモでさえ,ずいぶん珍しいと思われているようで,東京での進化学会大会の懇親会の折りだったか,ほとんど初対面だった尾本恵市さんに「SHINKAに書かれていたあなたの書評特集はとてもおもしろかった」と褒められて恐縮したことがあった.理系の研究者は日本にも山ほどいて,それぞれ自分が関心を持つ専門分野についてはそのおもしろさを熟知しているはずだから,その「外」にいる者よりもはるかに眼力なり心眼なりを持ち合わせているはずだ.研究者向けの専門書であれ一般向けの啓育書であれ,それをクリティカルに見る目をもった人がもっと読後メモを兼ねた「長い書評」を公開してほしいと思う.



もともと,書評をするということは,書かれたものに対して,自分の見解を重ね合わせた比較論評がベースになるはずだ.ということは,短い書評は原理的にありえないわけで,日本のメディアによく見られるような「短評」とか「紹介」は本来の書評ではないとぼくは思う.少なくともそういうものを書評とみなしてはいけないのではないか.著作の内容に踏み込まない(分量的に踏み込めないというべきか)文章が書評のような顔で通っているうちは,書評文化も何もあったものではないという気がする.名の通った書評誌に載るような「書評」のありようを考えてみれば,書評のデフォルト形式は自ずと決まってくると思う.