『新版・歴史のための弁明:歴史家の仕事』

マルク・ブロック[松村剛訳]

(2004年2月20日刊行,岩波書店,東京, xxviii+216 pp., 本体価格1,900円, ISBN:4-00-002530-9

【書評】

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第1章「歴史,人間,時間」では,まずはじめに歴史学とは「過去に関する学問」ではなく,「時間における人間たち」を対象とする学問であると定義する(p. 7).歴史の説明では〈起源〉を遡求することにこれまで多大な努力が払われてきたが,その由来はドイツ・ロマン主義にたどれると著者は言う(p. 11).しかし,進化学や発生学の場合とは異なり,歴史学における〈起源〉の追求の動機づけについては:


過去が現在を説明するためにあれほど活発に使われたのは,よりよく現在を正当化するか断罪するという目的でしかなかった.したがって多くの場合,起源の悪霊とは,真の歴史学にとってもう一つの悪魔的な敵である判断への固執の変形にすぎないのかもしれない.(p. 13)

と批判する.「系譜を説明と混同する誤り」(p. 14)は,〈起源〉を求める行為が,過去の出自のみに関心を向け,現在の状態が維持されている理由を探ろうとしないことにある.したがって,歴史の十全な説明のためには,系譜とともに過程を知る必要があると著者は主張する:


一言で言うなら,ある歴史現象は,その瞬間を研究しないならば十分に説明することはできない.進化の段階すべてに関してそれは言える.(p. 16)

さらに一歩進んで,「現在の知識が過去の理解にさらに直接的に重要な場合がある」(p. 27)とまで言う著者には,歴史学の中で「過去」と「現在」とのつながりをより強固なものにしようとする姿勢がうかがわれる.



続く第2章「歴史的観察」は,現在に残された史料(データ)からどのようにして過去の歴史を復元するのかを論じる.まずはじめに,断片的にのみ残された史料は「痕跡による知識」(p. 37)なのだが:


過去とはその定義からして,もはや何によっても変えられないような所与である.しかし,過去の知識は進歩するものであり,絶えず変化し改良される.(p. 40)

という点を考えるならば,史料の解釈の基本的スタンスがまず問われる.「受動的な観察は何ら豊かなものを生み出していない」(p. 46)と断言する著者は,もっと積極的かつ批判的な史料の解読を歴史家に要求している.



次の第3章「批判」は,まさにこの点 — どのようにして史料を批判的に読み取るか — を主題とする.その根幹には「比較」の論理があると著者は言う:


ほとんどすべての批判の基礎には比較の作業が含まれている.(p. 89)

諸動機の微妙な比較検討に基づく結論には,無限に確実であるものからせいぜいありえそうなものまで,長い段階的移行が考えられる.(p. 91)



こうして批判は,正当化する類似性と信用を失わせる類似性というふたつの極端の間を動いている.それは,遭遇の偶然にはその限界があり,社会的な一致は結局のところかなり緩い編み目でできているからである.[……]したがって要するに証拠の批判は,類似と相違の,一と多の直観的な形而上学に基づいている.(p. 94)

系統学者ならば,homology と homoplasy の対置を上の引用に読み取ることは容易だと思う.みかけの類似性とそうでない類似性との弁別が比較には必要だということだ.



興味深い点は,著者がここで「確率論」をベースにして,比較を進めようとしていることである.それは,さまざまな事象の組合せの中からもっとも妥当な結論を確実に引き出すための手法[の一つ]であると言う:


ある事件の確率を測るとは,それが起こりうる可能性を測ることである.そう認めたところで,過去の事象の可能性を語ることは正当であろうか.絶対的な意味ではもちろん否である.未来だけが不確かである.過去は,可能性に余地を残さない与件である.[……]しかしよく分析すると,確率の概念を歴史研究が使う仕方には何ら矛盾する点はない.(p. 103)

つまり,過去に考察の基線を設定するならば,「過去の時点における未来」(p. 103)にほかならないのだから,確率を論じても論理的な問題は生じないだろうという“りくつ”である.生物進化のプロセスを論じるときにも,もちろんこの“りくつ”は発効している.



この“りくつ”の背後にある仮定としての「等確率性」を著者は指摘する:


しかしながら,偶然の数学はひとつの虚構の上に立っている.あらゆる可能な場合のうち,出発点において諸条件が公平だと仮定する.(p. 104)

現実的な多くの状況の中でこの仮定は往々にして破られているが,例外的ケースとして著者が挙げているのがほかならない「系統推定」である.言語系統樹と写本系統樹を例にとり,著者はこれらの問題を解決する上で「確率論」がなじみやすいと言う:


実を言えば,ひとつの歴史的学問は例外である.それは言語学,少なくとも,諸言語の間で類縁性をうちたてようと努める分野の言語学である.その実効範囲は純粋に批判的な作業とは大いに異なるが,この研究は,系統を発見しようと努めるところは批判的作業の多くと共通である.さて,この研究が推論を行なう際に基づく条件は,偶然の理論に馴染み深い,平等という第一の規約ときわめて近い.この特権は,言語現象の固有性自体によるものである.実際,音の組合せの可能性の膨大な数によって,異なる言語において偶然それらが大量に反復されるという確率がごくわずかになるだけではない.それよりはるかに重要なのは,いくつかの模倣的諧調を別にすれば,これらの組合せに与えられる意味がまったく恣意的だという点である.[……]多様な可能性のうち,人間としてはどれを選択しても大差がないところから,ほとんど純粋な確率計算がこの決定をもぎ取ったのである.(pp. 103〜104)

ここで言及されている言語系統樹の推定に適用された「確率論」は,ごく単純な最節約法の確率論的擁護である.一方,写本系統樹では事態はもう少し複雑だと著者は言う:


原則は単純である.ある同一の著作の写本が三巻(B,C,D)あるとしよう.これらが三巻とも,明らかに間違った同じ読みを示すことがわかったとする.[……]そうすると,これらの写本は「同系」だと決められるだろう.[……]実際たしかに,これほど一貫した一致は偶然ではありえないであろう.(p. 106)

しかし,写字生という「人間」の意思がそこに働き得る可能性(実際,それに由来する過誤があった)を考えたとき,確率論の前提はあっさりくつがえされるだろうと著者は言う:


偶然的一致の賭けにおいて,集団の力の圧力と同じく個人の意思は偶然に対していかさまをするのである.(p. 107)

第4章「歴史的分析」は歴史の解釈の問題,最後の第5章は短い断章だが,歴史学における因果分析の問題をもう一度論じている.



全体として本書は,人文科学としての歴史学にとどまらず,もっと一般的な「歴史推論」のテーマを論じた著作として読まれるべきだろう.生物や言語あるいは写本の系統学もまたマルク・ブロックの歴史学理論の射程の中にあったと見るのはけっして深読みではないとぼくは思う.



なお,訳文は必ずしも読みやすくはない.もともと,そういう文体なのかどうか判断しかねるのだが.



三中信宏(2005年7月1日|2017年8月17日修正)