『風景と記憶』

サイモン・シャーマ

(2005年2月28日刊行,河出書房新社ISBN:4309255167



第3章「緑林の自由」を読了.ヨーロッパ大陸からイングランドに場所が移る.“ロビン・フッド伝説”を基調テーマとして,英国における「森林」のイメージを復元していく.大陸における伝説的・神話的な風景としての〈黒い森〉とは異なる記憶がそこにはあったと著者は言う:




こうして緑林は想像界裡のユートピアなどではなかった.実際それは力強く動くひとつの社会であった.イングランドの森がかくも,こうして忙しく立ち働くすべての社会的,経済的活動の本拠地であったため,ノルマン的な森の概念の押しつけは無理無体なことと映ったのである.(p. 175)



「forest」という言葉そのものが,もともと特別な法(「森林憲章」)によって管理される地域というだけの意味しかなく,必ずしも樹木が生い茂った「森」と等価であったわけではない(p. 175).その歴史的経緯が,支配者側による地域の法的な「フォレスト化(afforest)」を正当化し,その結果として,イングランドの大規模な「森林破壊(deforest)」をもたらした(p. 191).“ロビン・フッド”が立ち回った「森」にはそういう色づけがなされていたのだと著者は言う.

—— 記憶の古層を掘り起こそうとするシャーマの文体は,読者によってはディテールにはまり過ぎという評もありえるだろう.しかし,ぼくにとってはこういう細部の積み上げによる語りは好ましく感じられる.

振り返って見ると,カルロ・ギンズブルグの初期の著作に最初に惹かれたのも,同様の文体が感じ取れたからだと思う.たとえば,日本語訳された最初の本:カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫:16世紀の一粉挽き屋の世界像』(1984年12月19日刊行,みすず書房ISBN:4622011964)は,博士論文の最終段階であがいていた年の瀬に,たまたま本屋で見かけ,後ろ髪を引かれて買ったものだ.歴史学の本にしては,とんでもなく「マイナー」な主人公(歴史の塵かも)と彼の思想に光を当てて,当時のようすを復元していくというやり方は,新鮮という以前に「何だこりゃ」という印象を残した.

1年ほど後に出た第2作:カルロ・ギンズブルグ『夜の合戦:16−17世紀の魔術と農耕信仰』(1986年1月28日刊行,みすず書房ISBN:4622012111)も,出版されてすぐに買ったのだが,これまた書名に釣られたようなものだ(本のタイトルはとても大切だ).この本もまた,ヨーロッパの辺縁に遺された農耕信仰の全体像を異端裁判の記録を手がかりに復元していくという,とんでもなく些末な対象をとりあげた本だった.

どちらの本も,その扱っている題材のユニークさもさることながら,どういう動機でこういう研究を進める気になったのかという著者の内面にも関心があったことは確かだ.その後,歴史家ギンズブルグの著作は何冊も訳本が出たが,再び向き合うことになったのは,世紀が変わってから出た2冊:『歴史・レトリック・立証』と『歴史を逆なでに読む』だった.

—— ギンズブルグになじんでいたから,シャーマも違和感なく読めるようになったのか,それとも読み手側にもともとそういう姿勢ないし嗜好があったからかはさだかではない.〈マージナリア〉が好きな読者ならばわかってくれると思うが:澁澤龍彦とか,種村季弘とか,枚挙すればぞろぞろと類は友を呼ぶ.

それにしても,このシャーマ本,第3章までやっとこさ読んで,220ページ.まだ全体の1/3にも達していない.登攀の道,なお険し.