『グールド魚類画帖:十二の魚をめぐる小説』

リチャード・フラナガン渡辺佐智江訳]

(2005年7月10日刊行,白水社,東京,414 pp., ISBN:4560027234版元ページ目次

【書評(まとめて)】※Copyright 2005, 2014 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



確かに,本書はストーリー的にいえば露悪的なほどグロテスクに死体嗜好だし,登場人物もそのほとんどが「フリーク」に近いものを感じさせる(錯綜する“人名”の関係は最後になってわかる).一読して,ハッピーな気分になれる本ではもともとない.しかし,本書の象徴的テーマである〈魚類画帖〉にからみつく分類学の背景を考えたとき,その「奇形性」は俄然リアリティーをもって読者に迫ってくる.少なくとも,この本に描かれている分類学分類学者・分類学史は荒唐無稽でないばかりか,19世紀初頭という本書の時代設定を考えると,むしろまっとうな記述を著者はしているように私には思える.



もちろん,本書は正しい意味で「文学作品」なのだろうし,多くの読者はそういう本として受容するだろう.けれども,罪人としてイギリスからタスマニアに流された主人公が,どのような曲がりくねった経緯で魚類画を描くことになったのか,その動機づけの[裏返し]を少しでも考えたとき,当時の生物分類学のさまざまな思潮が,ヨーロッパ大陸からもっとも遠く離れたタスマニアにまで波及していたという状況設定はとてもおもしろい.



楕円の焦点のひとつが主人公ウィリアム・ビューロウ・グールドの内省であるとすると,もうひとつの焦点はトバイアス・アキリーズ・ランプリエール医師の奇怪なキャラクターだ.罪人の島で〈驚異の部屋〉を所有するランプリエール医師は,自称リンネの使徒であり,母国にいる盟友コズモ・ウィーラーとともに,リンネの使命を完結させるべく『オーストラリスの自然の体系(Systema Naturae Australis)』という著作をつくろうとする.グールドは彼らの手下として魚類画を描かされることになる(もちろんグールドにとって自然の体系化はどうでもいいことだ).



カール・フォン・リンネをはじめとして,エラズマス・ダーウィン,ラマルクら,著名な(実在の)博物学者の名前を並べ立てるグロテスクなランプリエール医師は,分類思想の化身にほかならない:


「承知のように —— わかるだろう —— 自然科学の世界ではほとんどいない」とランプリエール医師.「カール・フォン・リンネよりも優れた人物は —— そう? ちがう? そう —— 偉大なるスウェーデン博物学者」(p. 128)



そして,彼は生物分類学の大いなる目標を掲げる:

「だがわれわれの仕事 —— 大変な意義 —— 自然を装飾として解釈するのではなく —— 類別する —— 自然を秩序立てる —— すると残された謎は神だけとなる —— だがヒトは? —— ヒトが支配していることは完全に知られ,知られうるだろう,そしてヒトの優越は完了する —— ヒトの最後の帝国,自然 —— わかるかね? —— わかる? わからない? わかる —— わかるか?」(p. 136)



そして,魚の絵を描かせられることになった主人公グールドは,ランプリエール医師に服従させられる身分でありながら,最初から十分に醒めている:


「魚が情けない科学的挿し絵にとどまるようなときには,おれの頭のなかに,招かれていない客のように,コズモ・ウィーラー氏が“世界”を一個の“巨大蒸気機関”として創り直すという,おぞましいイメージが入り込んでくる.機会壊し屋が叩き壊そうとしたような,粉砕する歯車の歯に食い込む歯,そしておれとすべての魚が,分類と系統の歯のあいだでどろどろにすりつぶされ,大量の食い物になる.」(p. 170)



生物分類で身を立てるこの人々を見る目もシニカルだ:


「そのときすでに,外科医が完全に狂っているということは,おれにははっきりしていた.…… さらに要点を言えば,コズモ・ウィーラー氏が外科医に宛てて非常に明確に書いてきたところによると,科学者としての評価は,単に“努力と非凡な才能”で高まっていくものではなく,スウェーデンの偉大な博物学者-収集家であるリンネ伯爵が自らの人生を例に示したように,なにを集めてなにを集めないかという選択をする際に,ウェリントン公のごとく戦略的であることによって高まる.」(p. 134)



かくして,マッド分類学者(たち)に取り囲まれた?グールドは,その“外”にはもっとひどい現実があったわけだが,自らとその境遇を魚に託して(というか魚になりきって),〈ファン・ディーメンズ・ランド(=タスマニア)〉で生き延びていく:


「おれの本当の罪,それは,世界のありのままを見て,それを魚の姿に描いていることだった.」(p. 264)



本書の主人公グールドは実在する画家だ.彼の描いた魚の絵が各章の冒頭にカラー印刷されているが,それらはタスマニア州立図書館のサイトですべてオンライン閲覧することができる.絵とそれを書いた画家は“実在”するのに,ストーリーは“ほぼ”虚構だというのがフシギ感覚.もちろん,それが作家側の狙いなのだろうが.ただし,上に記したように,本書に書かれている体系学史的内容はけっしてまったくの虚構ではない.この本の隠れたテーマは,良くも悪くも〈taxonomic obsession〉にほかならないな.魚類に限らず分類学者は本書をぜひ手に取りましょうね.本書は,ただの小説ではなく,当時の自然誌や体系学の知識がないと十分に楽しめないような気がするので.



この本,ノンフィクション小説にしてはとんでもない価格だが,手に取ればその理由はわかるはずだ.冒頭と終結部のみ黒インク,実質的本文は“イカの墨から採った”セピア色のインク,そしてそれらに挟まれるふたつの章は“盗んだ貴石を砕いた”青黒インクで印刷されている[つもり]という凝りよう(それでも原書よりは簡略化されているという).インクだけでなく,装幀全体も,もちろん内容も,いずれをとっても破格.「読書の秋」向きの本だと思う.グッドです.



三中信宏[2005年10月5日|2014年1月22日改訂]



備考:〈Complete Review〉に書評あり.