『スパイス戦争:大航海時代の冒険者たち』

ジャイルズ・ミルトン[松浦伶訳]

(2000年12月5日刊行,朝日出版社,東京, ISBN:4-02-257553-0

【書評】

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ニクズクがバンダ諸島にしか生えなかったせいで

ハンバーグをこねたりカレー粉を調合するとき,ナツメグやメースが香辛料として大活躍する.この2つの香辛料は,どちらもニクズクという樹木から取れ,それぞれ黒い種子と朱い種皮を乾燥させたものである.16〜17世紀の東南アジア(東インド諸島)では,このニクズク由来の香辛料を求めて立て続けにやってきた,ポルトガル・イギリス・オランダなど西洋列強が砲火を交えた争奪戦を繰り広げた.

 

本国のイギリスやオランダにもっていけば現地価格の数百倍もの値段で取引されたという東南アジア産の香料は,喜望峰を越えて遠路はるばる派遣された船団が被ったおびただしい屍の山を乗り越えても,なお手に入れる価値のあるものと考えられてきた.とりわけその薬効成分が賞賛されたナツメグをめぐる争奪戦の激しさは本書が描く通りだが,そもそもなぜニクズク(ナツメグとメースの木)はこの絶海の孤島にしか分布しなかったのだろうか.ダーウィンと同時代の進化学者アルフレッド・ウォレスが香料諸島を含む東南アジアを探検し,この地域の地史と生物地理について独自の考察をめぐらしたのは,2世紀あまり後の19世紀なかばのことだった

 

本書は,この「スパイス戦争」のありさまを当時の取引記録や書簡など一次資料に基づいて描き出した労作である.とりわけ,香料諸島と呼ばれたモルッカの南端,バンダ海に浮かぶ小島ルン島(ニクズクの特産地)をめぐる英蘭の攻防戦(1620年)ならびにアンボイナ事件(1623年)について,イギリスの立場から生々しい描写がなされる.生物地理学的な「偶然」のせいでニクズクの地理的分布がバンダ諸島固有となってしまったがために,英船長ナサニエル・コートホープは,ルン島攻防戦の中,オランダ兵の一斉掃射を浴びつつ,バンダ海の藻屑と消えたのである.コートホープの死がイギリス本国に与えた大きな衝撃とその反動としてのナショナリズムの沸騰は,バンダの生物地理とは無縁のことである.

 

1667年のブレダ条約において,英蘭の紛争は最終的に政治決着され,オランダは東インド会社が所有していたニクズクの特産地ルン島の領有権を保持し続ける代わりに,当時オランダが占有していた北米マンハッタン島を手放すことになった.今にして考えるならば,この一見アンバランスな取引(イギリスは相当迷ったとのこと)のもつ意味は,ひとえに香料諸島が有していた歴史生物地理学的に特異な性格がもたらした世界史的エピソードとして理解されなければならないだろう.

 

確かに世界史ノンフィクションではあるのだが,私は本書を生物地理の引き起こしたある歴史的事件の叙述として読んだ.本書の描くオランダ人はまさに「鬼畜」である.この点はいささか一方的であるように感じられた.同一のテーマをオランダ側資料に基づいて論じた本,たとえば永積昭『オランダ東インド会社』(2000年11月10日刊行,講談社学術文庫1454,ISBN:4-06-159454-0)を読めば,おそらく複線的な理解が可能になるだろう.

 

翻訳文はよくこなれている.ただし,図の説明文中で,「バンダ」とあるべきなのに「パンダ」と誤記されている箇所がかなりある(pp. 111, 137, 181, 262, 266, 351, 354).血生臭い地名の微笑ましいまちがいだが,増刷時には訂正されるだろう.

 

三中信宏(3/December/2000)

【目次】
目次 2
謝辞 5
プロローグ 11
第1章:北の海のつむじ風 19
第2章:何という不健康な気候 48
第3章:音楽と踊るおとめ 70
第4章:ライオンの爪にかけられ 98
第5章:「提督,謀られました」 132
第6章:洋上の反乱 158
第7章:食人種の国 183
第8章:セント・ジョージ旗 210
第9章:紳士の争い 234
第10章:血染めの旗を掲げて 259
第11章:火責め,水責めの裁き 296
第12章:取引成立 329
エピローグ 350
解説(松園伸) 359