『ミクロコスモグラフィア:マーク・ダイオンの〔驚異の部屋〕講義録』

西野嘉章

(2004年4月27日刊行,平凡社ISBN:4582284442

【書評】※Copyright 2004 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

納得できるところとできないところが混ざり合う.たとえば,サイエンスとアートを“融合”しようという基本路線について:

昨今の展覧会は見ることの喜びそのものに訴えかける力が弱まっている,と感じてならないからです.なにか,見る者をはっとさせるような,おどろきの感覚が失われてしまった.見る者の方もまた,本当に新しいものや見たことのないものを,自分の努力でもって発見する喜びの,その感じ方を忘れてしまった.(p.9)



「ミクロコスモグラフィア」というタイトルを示されたとき,そういったいくつかのことがらに思いを致しつつ,なるほど含蓄に富むことばだなあとうなずき,マークにこれでいきましょうと言ったのです.わたしはさきほど,現代のわれわれが頭で考えることを優先するようになった結果,モノを素朴な眼で眺めることを忘れてしまったのではないか,無垢な子供の眼を通して世界を見ること,そして,喜びやおどろきを感じることを忘れてしまったのではないか,現代の教育研究環境における主知主義的な側面,知性優先主義的な側面が,ある種の弊害を招いているのではないかと問題提起しました.(pp.56-57)

悪くない問題提起だと思う.超芸術トマソン”の新鮮な驚きを想起しさえすればよい.しかし,体系学(システマティクス)に対する著者の見解を見てみると:

学問の世界がこまかな分科に枝分かれする.そういう流れがもし,打ち消しがたい時代の主潮だとするなら,現代のわれわれは,いまもって神学博士トマス=アクィナスのうち立てた中世スコラ学の体系から,一歩も踏みだしていないと言わざるをえません.(p.57)



中世スコラ学以来の「知」の細分化傾向に決定的な力を与えたのは,十八世紀の植物学者リンネです.知られる通り,リンネは世界を体系的に分類し,記述するシステムを確立しました.... 一定のシステムにそくして命名し,位置づける,というリンネの二名式分類法は,自然界をどのように把握すべきか,という問題に決定的な影響を与えただけでなく,われわれを取り巻く経験的世界をどのように把握すべきか,という認識論的問題にまで波及します.(pp.58-59)



なるほど,リンネの分類法は万能かもしれない.しかし,どこにも分類しようのないモノ,整合的に位置づけられないモノというのは,ほんとうに存在しないのか.そんなものは概念として成り立ちえない,そう考えて,名状しがたいものを,アプリオリに排除してしまったはいないでしょうか.げんに,すべてのものは,なんらかのかたちで方法的に位置づけることができる,という思い込みが蔓延することになっています.われわれは,それら整合的な分類体系に収まりきれないモノを,ゴミの範疇に押し込んでしまうか,そうでなくとも「落ちこぼれ」として,否定的に見るように習慣づけられていますからね.分類不能なものを,無意味なものと短絡させ,かえりみなくなるような状況が生じているのです.深刻なのは,そもそもがモノの備蓄庫としてあるべきミュージアムまで,そうした傾向に染まりきっていることです.(p.60)

おそらく体系学史をひもとけば,著者の主張はいたるところで反駁されるだろう.自然界の体系学的理解の源をトマスやベーコンあるいはリンネに求めるのは無理があるのではということだ.そもそも著者は体系化(systematization)に関するある歴史観をもっているように見える:

人間が獲得した学術的な知識や職人的な技術をフランシス・ベーコン譲りの分類システムに則って徹底的に記述しつくす.その目的に寄与すべく掲げられた膨大な図版は,全体から部分へ,自ずと読者の眼差しを領導するよう仕組まれている.こうしたシステマティックな世界把握法が,近代社会の到来とともに広く定着し,自然の驚異と文化の事象とのあいだには分明な隔てが設けられるようになった.この分断は現時に至るまで学術研究の世界で失効せずに生き続けている.サイエンスを絶対視した近代人は,その有効性を過信するあまり,かけがえのないものを失った.すなわち,世界の全体をミクロコスモスとして象徴的に,統合的に,寓意的に仮象する表現方法を喪失したのである.もし,この欠落を補い得る者がいるとすれば,それは美術家ではないだろうか.サイエンスは論理的であること,実証的であることを義務づけられており,人間の知的活動としていかにも不自由である.その点でアートの世界は自由である.サイエンスとちがい,アートには真理を探求するという義務もなければ,真実を語らねばならぬという強制もないからである.(p.276)

しかし,象徴的・統合的・寓意的な理解の前に「分類する」という原初的なシステマティクスが基盤としてある.「無垢な子供の眼」にすらすでにあるシステマティクスが備わっているというところから立論した方がより自然だろうと思う.著者はアートの「自由さ」に惹かれているようだが,言葉を変えればアートは無視されても何も実害がないというだけのことである.サイエンスはそうではない.ミュージアムがサイエンスとしての体系学の揺籃となってきたことは意味のあることだったのだとぼくは思う.

ということで,この本の書評はとても辛口になるだろう.装丁や体裁は誉めても.

三中信宏(7/May/2004)

【目次】
マーク・ダイオンの〔驚異の部屋〕 5
世界の眺め —— 俯瞰的に 49
〔前室〕「知の近代」のタイポロジー 63
〔第一の小部屋〕水の王国 91
〔第二の小部屋〕地上の王国 125
〔第三の小部屋〕地下の世界 143
〔第四の小部屋〕大気の王国 165
〔第五の小部屋〕人間 179
〔第六の小部屋〕理性と規矩 219
〔第七の小部屋〕大きいもの 231
〔第八の小部屋〕小さいもの 249
補遺 —— 塵埃圏彷徨,あるいは学術廃棄物のミクロコスモグラフィア 263
あとがき 279
索引 [285-282]