『ヴォイニッチ写本の謎』

ゲリー・ケネディ,ロブ・チャーチル松田和也訳]

(2006年1月25日刊行,青土社,東京,ISBN:4791762487版元ページ

なぞなぞな文字に奇々怪々な植物たち —— あやしいあやしい.このヴォイニッチ写本はいつ書かれたものか,著者は誰かはまったくわかっていない.ロジャー・ベイコンによる暗号本あるいは,後世の偽書という可能性も否定できない.この〈ヴォイニッチ写本(The Voynich Manuscript)〉というのは人智を越えているのではないか.



案の定,この写本は「実は精神病理的な産物」ではないかという章があって,膝を打って納得した.ヘルメス主義とかカバラとか暗号学とかいう以前のはなし.むしろ,ヒルデガルド・フォン・ビンゲンの〈幻視〉に近いのではという推測を著者らはしている.第7章で著者らが指摘する可能性:



ヴォイニッチ写本はこれまで,精神病の所産とは考えにくいとされてきた.それは写本自体の大掛かりさと内容の膨大さのためだ.だが既に述べたアウトサイダー・アーティストの作品と比較するなら,純粋に量の問題として見た場合,ヴォイニッチ写本がこのような精神異常の産物である可能性もあり得るのではないか?(p. 281)



はとても説得力がある.ありえない書体で記された本文といい,この世のものではない生物の絵の数々はこの可能性の高さを示唆する.



全編にわたって推理小説仕立ての本書の内容を詳細に書き連ねたのでは,ネタばらしの誹りを受けることになってしまうだろう.だから,ここではあくまでも,本書に関わりをもつ周縁的なことがらを結びつけよう.ある写本のたどった道筋を推理するという本書のスタイルは,コペルニクス天文学書の系譜を同様にさかのぼったオーウェン・ギンガリッチ『誰も読まなかったコペルニクス:科学革命をもたらした本をめぐる書誌学的冒険』(2005年9月30日刊行,早川書房ISBN:4152086734)を想起させる.ヴォイニッチ写本はもとはイタリアの地方寺院に長年にわたって秘匿されていたという.かのアタナシウス・キルヒャーに本書を献呈すると申し出る手紙には,あのルドルフ二世の名前も見える.時代と場所については,ちょうどポーラ・フィンドレンの『自然の占有:ミュージアム,蒐集,そして初期近代イタリアの科学文化』(2005年11月15日刊行,ありな書房,ISBN:4756605885目次書評)に重なることがわかる.



この写本の「発見者」であるウィルフリド・ヴォイニッチもまた奇なる人物だ.1865年にリトアニアに生まれた彼の前半生はよくわからないという.社会主義政治運動のかどでワルシャワに投獄されたが,シベリア送りになる前にイギリスに逃れたという.古書業を営むことになったヴォイニッチは,持ち前の眼力と交渉力で稀覯本を次々に掘り出し,一躍この業界でのしあがった.ヴォイニッチ写本もその収穫物のひとつだったそうだ.妻エセルはヴォイニッチの政治思想に共鳴して結婚したそうだが,彼女の父が「ブール代数」で後世に名を残した代数学ジョージ・ブールだったというのはさらに周縁的なことがらだろう.



この〈ヴォイニッチ写本〉の現物はイェール大学のバイネッケ稀覯図書館(Beinecke Rare Book and Manuscript Library)にあるデジタル・ライブラリーで「Voynich」をキーワードとして検索すればたどりつける:Voynich Manuscriptヴォイニッチ手稿の詳細に関しては,日本語の大きなサイトもある(熱意がびしびしと伝わってくるみたい).