川に生きるイルカたち

神谷敏郎

(2004年4月16日刊行,東京大学出版会ISBN:4130633236



【書評】

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半世紀に及ぶカワイルカ研究史をたどる

ことの発端は,ヒマラヤの未確認生物「雪男(イェティ)」の調査団を日本が送り出したことだったという.1959〜60年のことである.東大医学部が中心的役割を果たしたこの調査団は,残念?なことに,3ヶ月に及ぶネパール滞在調査にもかかわらず,ターゲットとする“イェティ”の捕獲はもちろん,その存在を示唆する状況証拠を見つけることもできなかった.しかし,転んでもタダでは起きなかった調査隊長は,なんと調査の矛先を世界の尾根から下界のガンジス川に方向転換し,淡水性のイルカすなわち“カワイルカ”の調査をすませて帰国したのだ.

なんというええ加減な行動計画か —— しかし,本書第1章に記されたカワイルカ研究史を読むと,この「偶然」があったからこそ,著者のようにカワイルカと本格的に取り組んでみようと思い立つ日本人研究者が生まれたことがわかる.著者は,その後,世界中の淡水域に生息するカワイルカ類を実際に調査する機会をもった.本書は,まだほとんど知られていないカワイルカ類の生態と生理そして保全について一般読者に向けて書かれている.

第2章のカワイルカ類のたどってきた進化の論述はもう少し体系化できなかっただろうか.陸上から海中への「逆進」の道を選んだクジラ・イルカ類のあるリネージがどのような原因で淡水への「遡上」を開始したのか.分子系統学的な研究成果も蓄積されつつあるこの問題は“系統樹”がひとつでも描かれていればもっと理解度がアップしたのではなかっただろうか.ガンジス,インダス,アマゾン,ラプラタ,そして揚子江という世界に名だたる大河に分布するカワイルカ類は互いにどのような類縁関係にあるのか――この肝心の点が本書では述べられていない.

続く第3章は,著者が関心をもったカワイルカの脳について述べられる.超音波によるエコロケーションを用いてカワイルカは視界の利かない河川の中を泳ぎ,餌を取っているという.“おでこ”の部分が超音波を集約する「レンズ」の機能をもっていることを初めて知った.また,頭蓋骨の左右非対称性が発生的にどのように出現するのかという点も興味深い.

最後の第4章は,中国でのヨウスコウカワイルカ保全生物学が中心テーマである.すでに200頭足らずの生息しか確認されていないこのカワイルカをどのようにして絶滅から救うのか――本章では中国でのさまざまな活動(政策,広報,研究,国際協力など)をレポートするかたちで,カワイルカ保全の「現場」を描いている.なお予断を許さない現状を認めつつ,カワイルカ保全を通して社会に対しての環境教育を実践するという道筋が印象に残る.
個人的には,第1章のエピソードと第4章のルポルタージュ,そして章末ごとに登場するカワイルカのイラストがお薦めだ.

三中信宏(12/June/2004)