『検証・なぜ日本の科学者は報われないのか』

サミュエル・コールマン[岩舘葉子訳]

(2002年4月10日刊行,文一総合出版,東京,395pp., ISBN:4829900652目次

【書評】※Copyright 2002 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



「日本の科学」が営まれる研究環境のアセスメント報告書

本書を読んで大きくうなずき,溜飲を下げ,そして闘志を燃え立たせる研究者はきっと多いことだろう.学者は天上でカスミを喰って生きているわけではない.大学・研究所・企業の「研究環境」は,生身の研究者が日々の営みをしている地上の「場」にほかならない.日本の研究環境は,国際比較という視点のもとで,はたしてどのような長所・短所をもっているのか,研究者個人がハッピー&アクティヴであり続ける上で何が障害となり得るのかを客観的に知ることは,地上に生きる研究者個人にとってたいへん切実な関心事である.



とりわけ,国立の研究機関や大学の独立行政法人化の方針にともなうさまざまな問題点(研究費,人事,業績評価など)がホットな論議の的となっているいま,日本の科学研究の「環境アセスメント」を行なった本書は,それらの問題に関心をもつ多くの研究者にとってまたとない情報源となるだろう.実にタイムリーに出版されたと思う.まだ本書を手にしていないならば,すぐに書店に走るべきだ.



本書の特徴は,著者が科学社会学における「科学のフィールドワーク」(p.51)の方法に則って,科学者の活動の場に入り込んで「参加観察」(pp.48, 344)を行なった観察データに基づいて書かれたレポートだという点にある.ブルーノ・ラトゥールの言う人類学的手法にも通じるこのやり方は,本書の随所に見られる著者からの科学者への探索のあり方に反映される.



著者が来日して滞在したのは,分子生物学・生化学・医学分野のいくつかの研究機関である.とくに,蛋白工学研究所,大阪バイオサイエンス研究所,食品総合研究所でのフィールドワーク期間が長い.研究の場に入り込んだ著者は,周囲の研究者や研究管理者との会話・質問・観察を通じて,日本の科学者がどのような研究環境に置かれているのかをアメリカ(オレゴン大学への言及が多い)との比較のもとに明らかにしようとする.



第1章では,日本の科学が長足のシンポを遂げたにもかかわらず,なぜ一流になれないのかという問題提起をする(p.30).この問題へのアプローチとして,研究者のキャリア形成における【クレジット・サイクル】――金融業界の用語らしい――に着目する.クレジット・サイクルとは,「研究成果を引っさげて競争に参加し,助成金という形でさらに資源を手に入れ,それを再び研究に投資するという方法で自らのキャリアを築いていく――だから“サイクル”なのだ」(p.38)と説明される.日本の科学界においてクレジット・サイクルがどのくらい円滑に進行しているのか,そうではないとしたらどこに障害があるのかをフィールドワークを通して明らかにすることが,著者の一貫した基本方針である.もともとはラトゥールによるクレジット・サイクル概念が,どの程度の普遍性・有効性をもって現場の科学の解明に寄与できるかどうかは私にはわからない.しかし,本書にかぎって言えば,さまざまな研究機関の研究環境アセスメントの上で強力なツールとなったことは明白だ.



第2章では,日本の大学の講座制がもたらす弊害を論じる(とくに大学医学部の講座制には手厳しい).不透明な人事や研究資金配分は,クレジット・サイクルを極端に制限すると指摘される(p.66).科研費問題への言及も.



第3章は,国立の研究所の研究環境についてである.著者によって観察されたのは農水省(当時)の食品総合研究所.応用志向の中での基礎研究の困難さ,室長のジレンマ,地方転出がいかにクレジット・サイクルを分断するものであるかが詳しく指摘される.組織率の高い労働組合もまた研究者の足を引っ張る要因なのだとも.本書全体にわたって「活きがいい」と感じさせるのは,随所に研究者の生の声が聞ける点にある.ここでも,食総研の研究員のこんな声が――「私たち研究者自身で解決するには問題が大きすぎる.欲求不満が募るよ.私たちは何のために存在するのか? 何のためにここにいるのか?」(p.115)



第4〜6章は,地理的に隣接する蛋白工学研究所と大阪バイオサイエンス研究所が舞台である.政府・地方自治体・企業によって設立されたこれらの研究所では,大学研究員と企業研究員の「研究文化」のギャップ,任期付き研究員の処遇,科学者と官僚とのバトルなど,「国家レベルの問題の縮図」(p.207)が次々にあらわれる.とても他人事とは思えない.研究管理をする側の省庁の官僚がそのノウハウを持ち合わせていない「しろうと」(p.208)であることが,いかに研究者個人のクレジット・サイクルの障害となるかが指摘される.



第7章は,女性研究者の問題である.前から指摘されてきた問題点(地位,処遇,改姓,キャリアの持続など)は,そっくりそのまま本書でも指摘されている.



第8章は,研究環境の改善を阻む組織的原因の追及である.たとえば,任期付き研究員問題についても,人事選考の透明化,業績評価システムの客観性など組織面での改革が伴わないかぎり,「終身雇用のエリート研究者とジプシー研究者という二層構造が生じ」(p.284),「永遠に流浪する下層階級を生みだすばかり」(p.176)と著者は言う.組織改革を阻む官僚側の抵抗は根強いが,「本気で科学にてこ入れ」(p.303)しようという選択肢を選ぶならば,組織のあり方の根本的再考は不可欠と指摘する.



第9章は,科学をめぐる数々の日本人「国民性」俗説を切って捨てる爽快な章である.消極的で,議論を好まず,儒教多神教の影響下にある日本人という俗説は何の根拠もないのだが,「私が国民性・“文化”原因説の欠陥をどんなに徹底的に暴いてみせたとしても,この説を根絶やしにすることはできないだろう.この説は,仲間どうしのなれあいを黙認するという根深い問題の格好のいいわけになるからだ」(p.312)と著者は言う.もちろん,日本の科学が歴史的にたどってきた経緯や地理的・言語的な固有性,そして国際舞台でのいわれなき差別など科学する上でのハードルはまだ高いのだが,それであきらめたのでは元も子もないではないかと著者は日本の科学者たちにエールを送る.



クレジット・サイクルという評価基準に沿ったアセスメント報告書であり,今後乗り越えなければならない課題の多さにはめまいがする.しかし,問題点の所在を具体的に明確にしてくれた点で,本書はたいへん参考になると思う.盛り沢山の事項を見渡す索引が付いていないのは残念だが,著者のメッセージは私にもう刷り込まれてしまった:「なぜアナタは報われないのか?」



「日本の科学」が営まれる研究環境のアセスメント報告書として心して読まれるべき本だと思う.



三中信宏(21 November 2002)

追記]今日(18日)たまたま〈柳田充弘の休憩時間〉の記事「博士号取得者の資格」を読んだのですが,それにトラックバックしている〈大隅典子の仙台通信〉の記事「博士号取得者のキャリアパス」で,この本のことが取り上げられていたので,以前書いた書評原稿をここに転載しました.もう3年あまり前の報告ですが,今でも事態はほとんど好転していないどころか,むしろ悪化していると言えるのではないでしょうか.本書は新刊ではありませんが,この意味では今なお(残念ながら)賞味期限を過ぎてはいないということです.(18 April 2006 記)