『種の論理の辯證法』

田邊元

(1947年11月20日刊行,秋田屋[刊行責任者:哲學季刊刊行會],大阪,ISBNなし → 目次



プラトンからヘーゲルにいたる「弁証法」を足場にして,「個」から「類」への階層の中間に位置する「種」に独自の弁証法的地位を与えるというのが,〈種の論理〉の骨子だと理解した.もちろん,なぜことさらに「種」なのか,という彼のこだわりの背景はよくわからないが,敗戦後間もない出版事情の悪い当時,ざらざらの紙に印刷されたふかふかの本書を手にすると,戦中から数年間の沈黙の後に彼が出した意図が,これまたよくわからない「“懺悔道”としての哲学」に立脚した〈種の論理〉の新たな発展を目指していたことは,その序文を見るだけでも十分に伝わってくる:




プラトン弁証法キリスト教の絶対転換の教と結附くことによって,始めてその意味を完うすることができたのであるといってよかろう.無即愛,愛即無という信証,これである.私のここに展開した所は,此様な意味に於ける弁証法である.懺悔道としての哲学が,この世界歴史的思想発展の線に沿うものなることは,私をして私自身の思想の浅薄無力にも拘らず,方向として此哲学の正しきことを確信せしめずには措かない.私が此論文を単行書として更に世に問はうと決心した所以である.私は之をもって,従前書いた種の論理に関する論文の改訂集成を出す予定であるといった公約に対する,差当っての代償とすることを許されたいと希ふものである.(序 pp.5-6)



要するに“弁証法”なので「何でもあり」は当たり前なのだが,少なくとも〈種の論理〉に関しては,「個」でも「類」でもなく「種」を抑圧即推進の弁証法的存在とみなした田邊元の着眼は注意する必要がある.形而上学的にみたときの具体的普遍(konkretes Allgemeines: pp.145-146)について,「個」と「類」の間に「種」を媒介させるという試みをしている.

いずれにせよ,田邊元の〈種の論理〉を眺めるには他の本ではなく本書を手にするのが迷いのない近道だろう.というのは,近年,〈種の論理〉の“化粧直し”を試みた中沢新一の論考:中沢新一フィロソフィア・ヤポニカ』(2001年3月10日刊行,集英社,本体価格2,600円,xxiv + 376 pp.,ISBN:4087745139目次)が出版されているからだ.

種の論理の辯證法』と『フィロソフィア・ヤポニカ』はたまたまは同時に届いたのでパラレルに読んでみた.中沢は田邊の〈種の論理〉に新しい衣装を着せて,再デビューさせようとする.しかし,『フィロソフィア・ヤポニカ』は読んでもぜんぜんわかりません(きっぱり).「微分」や「リーマン多様体」に関する的外れな論議は質の悪い“ポストモダン”にすぎない.

ただひとつ,田邊元の「いま」についての彼の指摘はきっと正しいのだろう:




「それにしても,この仕事にはじめてとりかかったときに驚いたのは,田邊元とその哲学が,ほぼ全身を忘却の淵に沈めていたことだ.……ところが,田邊元をめぐるこの寒貧たる状況は,西田幾多郎の場合と著しい対照をなしている.」(p. xi)



—— この一節のみは有意義だった.