『The Science of Describing : Natural History in Renaissance Europe』

Brian W. Ogilvie

(2006年6月1日刊行, The University of Chicago Press, Chicago, xvi+385 pp., ISBN:0-226-62087-5 [hbk] / ISBN:978-0-226-62088-6 [pbk] → 詳細目次著者サイト版元ページ

【書評】※Copyright 2008 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



 本書は,リンネの直前にあたる16世紀ルネサンス期の博物学に関する歴史書だ.その基本スタンスに共感するのは,16世紀の博物学が,リンネが活動した17世紀とは異なり,「分類」ということに対する関心が意外なほど低かったことに対する著者の説明だ.著者は,16世紀のナチュラリストたちが直面した生物の多様性は認知心理学としての folk taxonomy が処理できる範囲にあったからだろうと推察する.



 つまり,16世紀のルネサンス博物学は,いかにして対象生物を正しく記載するか(「The science of describing」)に集中できたのは,分類そのものを Scott Atran のいう common sense に委ねることができたからだというのが著者の考えである.そして,ヒトが認知的に識別可能な folk species の上限数は「500」であると著者は指摘する.蒐集物のサイズがこの上限を越えるとき,「記載の世紀」から「分類の世紀」への推移をひき起こす体系学史的転換が生じたという.



 16世紀は,ヒエロニムス・ボスやコンラート・ゲスナーナチュラリストたちがいたローカルな地域生物相に関する folk taxonomy で何とかやっていけた.しかし,探検博物学が興隆し,全世界から異国の生き物たちが届くようになった17世紀は,博物学的知識のグローバル化とともに folk taxonomy の限界が見えるようになった.単なる「記載」を越えて「分類」や「体系」の理念とそのための実践的方法が真剣に論議されるようになった背景にはそのような理由がある.



 西洋の博物学における「記載の科学」から「分類の科学」への移行というモデルが,東洋の本草学にもあてはまるのかどうかがおもしろい点だろう.たとえば,山田慶兒(編)『東アジアの本草博物学の世界(上)』(1995年7月21日初版刊行/2007年10月5日復刊第2刷,思文閣出版,京都,x+333+xix+2 pp.,本体価格7,500円,ISBN:4-7842-0883-6[初版]/ISBN:978-4-7842-0883-8[復刊]→ 目次版元ページ)に所収されている論考:山田慶兒「本草における分類の思想」(pp. 43-71)に出てくる“世界分類”とか“共世界分類”という概念は,世界観としての「分類」すなわち「体系」が東アジアの本草学の伝統の背後に連綿として流れていることを指摘する.



 そのような本草学の伝統が「体系」の原理を突き詰めて論じるのではなく「個物」の記載を重視する基本姿勢を特徴としていたことは,同じ論文集の西村三郎「東アジア本草学における「植虫類」:西欧博物学との比較の一資料として」(pp. 72-101)で詳細に論じられている.彼は,「東アジアの伝統的な本草学・博物学[……]に顕著なのは,個々の自然物を薬効・その他の点で有用な部分に焦点を合わせながら記述していくという姿勢である.[……]そこでは,自然物全体よりも個物が,さらに,個物の有用な「部分」が個物の「全体」に優先さえする」(p. 96)と述べ,「単に自然物を正確に見分けるだけでなく,物それ自体の本性を問い,人間中心の立場をはなれて,自然全体の秩序のなかにおけるその位置を明らかにする」(p. 97)ことを目指した西洋の博物学との根本的なちがいに注目する.



 この論点について,西村はのちに書かれた大著:西村三郎『文明のなかの博物学:西欧と日本(上・下)』(1999年8月31日刊行,紀伊國屋書店ISBN:4-314-00850-4 / ISBN:4-314-00851-2書評目次)の中で詳細に議論することになる.

 Ogilvie の著書は,生物体系学における認知心理の作用のありようを科学史の観点から探ろうとした点でユニークであると考えられる.「記載」から「分類」への移行はどのくらい human universal な要素を含んでいるのだろうか.東西の分類学の歴史をふりかえればそれが見えてくるにちがいない.



三中信宏(23 October 2008)