『増補・民族という虚構』

小坂井敏晶

(2011年5月10日刊行,筑摩書房ちくま学芸文庫],東京,362 pp., ISBN:9784480093554版元ページ初版書評

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「民族」の時空的な同一性と変化性の観念



本論についてはすでに初版の書評として公開した.今回,文庫化に際して追加された「補考 虚構論」(pp. 295-331)を読んだのでその感想を少しばかり記す.本書が全体としてターゲットとしているのは,「そもそも民族は存在するのか,また存在するなら,それはどのような意味においてなのかという根本的な問い」(p. 5)である.本論では,本質をもたないにもかかわらず時空的に同一な「民族」という観念がどのような社会心理的背景のもとに維持されてきたが論議されている.



それに対して,この補考では時空的な「同一性」とともに「民族」観を構成するもうひとつの要素である「変化」に目を向けている.

民族をはじめとする,様々な集団は頭の中にあるのか,それとも外部の実在物なのか.しかし,この二者択一的問いは,それ自体まちがっている.(p. 296)

同一のモノあるいは集団が変化したと認知されるためには,異なる複数の事象が同一化される必要がある.我々の世界は,数限りない断続の群れから成る.しかし,他者との相互作用が密かに生み出す虚構のおかげで,民族の連続性が錯覚される.(pp. 299-300)

民族の同一性は「虚構」である主張する著者は,時空的な変化にもかかわらず同一性が認知される理由を考察している.そこでは明示的に形而上学への言及があるわけではない.しかし,「民族」にまつわるこのような論議は,存在の時空的同一性に関して現代の形而上学が考察していることと大きく重なっているにちがいない.



時空的な変化を論じるにあたり,著者はダーウィンやラマルクの進化学説をとりあげている.生じる変化が合目的なのかそれとも偶然にすぎないのかという論争は,生物進化の研究分野では繰り返し起こってきた.しかし,時空的に変化する実体としての「民族」という観念にとっては,彼ら進化学者たちによる進化プロセスの仮説よりも前に,民族なるもの(それが「虚構」であったとしても)が世代を越えて存続しているという「系譜」パターンの共通認識が基礎にあるように思われる.



進化思想が広まるはるか前から,系譜学的思考は人間社会の中に浸透していた.民族という社会学的な観念が成立する文脈と背景を論じる本書は,あえて生物学や進化学をもちだすまでもなく,社会学史としてこれまで研究されてきた民族・氏族・家族に関わる系譜学的思想との関連付けを強調した方がよかったのではないだろうか.



「あとがき」のなかで著者は:

世界は夥しい関係の網から成り立ち,究極的な本質は,どこにもない,しかしその関係こそが,堅固な現実を作り出す.(p. 334)

と述べている.生物学における【種】の問題は,本書が論じる「民族」と同じく,その実在性に関する形而上学的論争が長年続いている.著者が言う「関係性」に着目しつつ【種】問題へのアプローチを取る研究者も確かにいる.



それとともに,関係の「網」が現実を作り出すという表現は動的分類学を提唱した植物学者・早田文蔵の思想を髣髴とさせる.早田は華厳経の教義に啓発されてネットワーク分類という理念に到達した.それは本書の随所に見られる仏教的な世界観や形而上学ととてもなじみやすいように感じられた.



三中信宏(2011年5月31日)