『乾燥標本収蔵1号室:大英自然史博物館 迷宮への招待』

リチャード・フォーティ[渡辺政隆・野中香方子訳]

(2011年4月25日刊行,NHK出版,東京,451+10 pp. +32 color plates, 本体価格2,500円,ISBN:9784140814734目次版元ページ

【書評】※Copyright 2011 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

光と影のメイキング・オブ・ミュージアム

博物館とは昔も今も「ものを集める」ことを一貫して目指してきた.16世紀ルネサンス時代のヨーロッパに生まれた「博物館」という社会装置は,かつての王侯貴族たちが富に飽かせて蒐集した珍品宝物のコレクションの収蔵庫(「ヴンダーカマー(驚異の部屋)」とか「キャビネット(秘蔵庫)」と呼ばれた)にルーツをもつ.素朴にして強固な蒐集慾によって各地に生まれた「驚異の部屋」の今に残る残像は:小宮正安『愉悦の蒐集:ヴンダーカンマーの謎』(2007年9月19日刊行, 集英社新書[ヴィジュアル版005], ISBN:9784087204094書評目次)のカラー図版で垣間見ることができる.



蒐集を通して所蔵コレクションをつくりあげることは世界を知的に征服することにほかならない.その後,ヨーロッパ各地に生まれた博物館は,国内だけにとどまらず,より珍奇なものを求めて世界中に探索の手を伸ばすことになった.そのターゲットはだれも見たことのない動植物や宝石だった.濫觴時代の博物館の歴史を論じた大著:ポーラ・フィンドレン[伊藤博明・石井朗訳]『自然の占有:ミュージアム,蒐集,そして初期近代イタリアの科学文化』(2005年11月15日刊行,ありな書房,東京,782 pp., ISBN:4756605885書評目次)は「知識こそ力である」という強固な信念が底流に流れていたと述べている.



本書は,数ある自然史系博物館の頂点に君臨するロンドンの大英自然史博物館を舞台にして,その長い歴史のタペストリーを織りなす人物とコレクションの物語である.一般の来館者が歩きまわれるこの巨大な博物館の展示フロアの背後には,もっと広大であやしい世界が広がっていることを,読者は著者に先導されながらひとつひとつ見聞することができる.18世紀に生きた現代分類学の祖カール・フォン・リンネの手になる植物の標本や19世紀の進化学者チャールズ・ダーウィンがみずから蒐集した昆虫標本もここには残されている.数世紀前になくなったはずの「驚異の部屋」が時代を越えて現代もなお生き続けていることがわかる.



長年にわたってこの博物館に奉職してきた古生物学者である著者は,来館者向けの「表」の顔だけでなく,博物館をめぐる「裏」の事情にもよく通じている.歴史のある博物館であるだけに多くの逸話やエピソードにはことかかない.1970年代に著者が就職したときから始まる物語は,同じ職場の館員たちのユーモラスにしていささか(場合によっては犯罪まがいの)問題のある行状を描き,また蒐集コレクションの盗難や捏造という博物館ならではの事件にも言及する.現在ほど世知辛くなかった古き良き時代のミュージアムは,よくも悪くも「変人たち」が生き延びられるかぎられた空間だったのかもしれない.



19世紀後半,ロンドンのサウス・ケンジントンの地に独立して以来,長年にわたって蓄積されてきた膨大なコレクション,圧倒的な量を誇る蔵書や資料の山,そしてこの博物館を日々支えている多くのキュレーターや職員を擁するこの博物館は,神聖不可侵なる独自の世界を形成していると見ることもできないわけではない.しかし,本書のもう一つの興味深いテーマは,これほど権威のある博物館であっても,なお社会と時代の趨勢とは無縁ではいられないという点である.



著者は,博物館の管理運営のあり方が現代の自然史系博物館の展示公開と研究活動の二本柱のバランスを良くも悪くも左右していると繰り返し指摘する.大英自然史博物館の初代館長はリチャード・オーエン(反進化論を標榜してダーウィンと対立した)だった.その後もギャビン・デビアをはじめ高名な生物学者が館長として君臨することもあれば,たいしたことない管理者が牛耳ることもあったという.とりわけ,イギリスの近年のきびしい財政事情を反映して,多くの有能な研究者たちが博物館を去ることになったのは痛恨の極みであると著者は言う.



初代館長オーエンの長大な伝記:Nicolaas Rupke『Richard Owen: Victorian Naturalist』(1994年刊行,The University of Chicago Press, Chicago, xviii+462 pp., ISBN:0300058209)は,同時に大英自然史博物館の生誕記録でもある.同時大のダーウィンに敵対し反ダーウィン勢力の筆頭としていまなお糾弾されているオーエンだが,自然史系ミュージアムの手本である大英自然史博物館を育て上げた大きな功績は顕彰されるべきである.オーエンは博物館の化身にほかならなかった.



同じく19世紀なかばに新大陸アメリカに渡り,ボストンのハーヴァード大学分類学者養成のための比較動物学博物館を創立したのは,オーエンと並ぶ反進化論者として有名なルイ・アガシーだった.この博物館の歴史を描いた:Mary P. Winsor『Reading the Shape of Nature: Comparative Zoology at the Agassiz Museum』(1991年刊行,The University of Chicago Press, Chicago, xviii+324 pp., ISBN:0226902153)は,博物館はコレクションの蒐集こそ本務であり,最先端の学問を追究することは二の次とみなされてきたという.この独特の知的環境が自然史系ミュージアムが長年にわたって積み重ねてきた功績であると同時に罪状だったのかもしれない.



世界に冠たる大英自然史博物館はいまなお成長し続け,生物多様性の研究を世界規模で推進する中核研究機関となっている.世界中の他の自然史系博物館と足並みを揃えつつ,伝統的な研究手法とともに,DNA遺伝子情報を踏まえた最新の研究成果が出されている.現代の博物館がもついくつもの側面を等身大で描写した本書は多くの読者にとって見知らぬ世界への格好のガイドブックといえるだろう.この巨大博物館のオモテの威容に歓声をあげるもよし,ウラの実像にくすっと笑うもよし.



三中信宏(2011年4月26日|2011年6月1日改訂)



追記]本書評原稿をほぼ半分に短縮した改訂版は日経サイエンス2011年7月号(p. 108)に掲載された.