「文章の「註」について」

これまでたくさんの文章を書いてきたが,本文からはみ出す「註」(脚註や巻末注)を付けたことはほとんどない.原稿作成の方針として,たとえば引用文献はすべて脚註に追い込むというような方針が上から降ってくるような場合は,抗わずに従っている(最近では『思想地図β』や勁草書房文化系統学への招待』に寄稿した文章).他人の論文の「註」を読むのは好きだが,自ら進んで「註」のある文章を書こうと思ったことはない.

この点については,これまであまり深く考えたことはなかったが,要するに文体(スタイル)の好みの問題だろう.他人だったら「註」に入れるであろうトリヴィアルな内容も,ワタクシの場合はぜーんぶ「本文」中に取り込んでしまう.重要な論点と些細な挿話を文章の中でいわば「対等」に扱っているということになる.そういう文章の書き方を長年にわたって実践してきたのは Stephen Jay Gould だった.彼のエッセイ集では「註」はよほどのことがないかぎり皆無である.エッセイのひとつひとつは短いのでそれは当然だろうと思われがちだが,彼のこの文体上の特徴は短編エッセイにとどまらない.

たとえば,グールドの遺作『進化理論の構造(The Structure of Evolutionary Theory)』(2002年刊行,Harvard University Press, Cambridge, xxiv+1433 pp., ISBN:0674006135目次版元ページ)は,1500ページにも及ぶ大著でありながら「註」がひとつもない.一般に科学史書は本文以上の分量の脚註が付けられていることがあるが,グールドの『個体発生と系統発生(Ontogeny and Phylogeny)』(1977年刊行,Harvard University Press, Cambridge, xvi+501 pp., ISBN:0674639405版元ページ)は,反復説を詳細に論じた500ページに達する科学史の著作であるにもかかわらず,やはり「註」はほとんどない.グールドは一貫して,あらゆる事項を本文中に織り込むという文体を守り続けた.

些末なトリヴィアと要点のエッセンスとを同じ文章の中で混在させるというのは,ある意味では「賭け」みたいな危ういところがある.ヘマをすると読者を樹海に誘い込むおそれがあるからだ.「良き理系文章」を書くための指南書があれば,きっと積極的に「註」を利用して,肝心の「本文」はスリムかつクリアにせよという教訓があってもフシギではない.しかし,ワタクシ的にはあえてそういう「スリム」や「クリア」とは無縁の文体を心がけるようにしている.トリヴィアからエッセンスへと読者を引っ張り上げるグールドの熟練の技に心酔しているからだろうと自己分析している.

そんなわけで,「註」のない執筆人生をずーっと送ってきたもんだから,なまじっか「註」のある文章をいったん書き始めるともうたいへん.それぞれの「註」が自らの存在意義を勝手に主張し始めて,気がついたら長い文章に成長してしまっている.これまで「註」のない文章を書いてきたのは,そういう“分岐的文体”をどこかで嫌っていたからかもしれないとあらためて自覚したしだい.

やっぱりワタクシ的には文章は「巻物」のようにすっきり一本スジが通っているのがいいなあ.読む側にとってもそのつど「註」への参照を強制されるようでは文章を読み進む“勢い”を削がれることになるだろうし.