『サイエンス・ウォーズ』

金森修

(2000年6月30日刊行,東京大学出版会,東京,458+xxxiii pp.,本体価格3,800円,ISBN:4130100858

この際だから,十年前に岩波『科学』に掲載した書評の原稿をアップしておくことにしよう.

【書評】※Copyright 2001, 2012 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved


科学・技術・社会の相互関係を論じる科学論は,科学的営為に関する言説をさまざまなデータから検証することであると私は考えている.確かに,本書の第III部で詳細に論じられているように,遺伝子操作・生殖医療・優生学エコロジー運動など生物学と社会との接点には,科学論が対象とすべき重要な問題群が生まれつつある.“総覧的に見るなら現代の科学論(science studies)は科学史,科学哲学,科学社会学の三つの軸から構成されている”(p.28)と本書の著者である金森はいう.この総論に異論はない.



現代科学が引きおこす社会的・文化的・政治的な影響の広がりに関して,科学者は鈍感であってはならないだろう.それと同時に,現代科学の影響力が今後もさらに拡大と浸透を続けるであろうと予想される以上,科学と科学者の営為をできるだけ幅広い文脈の中で多角的に論じることには大きな意義がある.科学論は,新たな世紀を迎えたいま,さらに注目を集め続けるだろう.本書は,著者金森修が現代科学論の立場から最近数年間に発表した論文を集め,さらに書きおろしを加えて,上記の問題に関心をもつ読者に向けて刊行された.全体は,1990年代のサイエンス・ウォーズを論じた第I部,その後の経緯および関連する社会構築主義などを論じた第II部,そして遺伝子・生殖・エコロジーに関する個別事例である第III部に分かれている.



サイエンス・ウォーズに関連づけて現代科学論の紹介をするのが本書の目的であるが(p.14),この金森の試みはどれだけ有効であろうか.本書を通して,金森は“現代科学論を推進する人たちと,現代科学者との間の戦争”(p.14)という“サイエンス・ウォーズ”なる一部の科学論者側に立つキャンペーンを広めようとしている.しかし,特定の歴史的事件(たとえば後述の“ソーカル事件”)がたとえ“戦争”と呼べたとしても,科学論者と科学者の間には“戦争”があるのだという一般化された言明との間にはさらに大きな隔たりがある.“戦争”があるというためには経験的なテストが不可欠である.それなしには単なるキャンペーンに堕してしまう.



科学を議論できるだけの十分な学的基盤をもつことは,現代の科学論が満たすべき最低限の条件だろう.個別科学における具体的なデータの積み上げは現代科学論の得意技である.したがって,科学論それ自体の“科学性”をみるためには,提示された個々の事例について詳細な検討を加える必要があるだろう.しかし,金森の依拠する科学論の問題点を議論する以前に,本書の中でキャンペーンに動員されている“事実”なるものを詳しく調べてみると,論拠のない単なる個人的憶測あるいは偏向的曲解にすぎないと思われる事例がいくつもある.実際,下記に例示するように,“サイエンス・ウォーズ”を直接論じた本書の第I部と第II部から,確たる論拠に欠けると思われる金森の主張を挙げることができる.



文1)“そして事実,サイエンス・ウォーズ全体の流れを知る私たちは,そのような事件が実際にあったということを目撃している.ワイズ(Norton Wise)という科学史家がプリンストン高等研究所で科学史の職につこうとしたとき,そこの科学者たちによってたかって人事をつぶされてしまったのである”(p.59)ならびにこの文に新たに付加された脚注:“その報告[Chronicle of Higher Education, 16 May(1997)]には[ブルーノ・]ラトゥールがその六年前に同じ研究所に応募したとき,恐らくは同じ理由のためにうまくいかなかったという事実が書かれている”(p.109:[ ]は三中による補足).しかし,金森が引用している典拠を調べると,ワイズ人事への反対票2票(全6票のうち)を投じたのは物理学者と歴史家であると書かれている.また,ラトゥール人事の場合も,本人自身が立候補を取り下げたと報告されている.けっして科学者たちが“よってたかって”おこなった“人事潰し”(p.100)ではない.



文2)“同じニューヨーク大学といっても,ロスはカルチュラル・スタディーズ系の学部としては国内でも評価の高い学部で,実に華やかな経歴を歩みつつあった.ところがソーカルが所属する学部は物理学系の学部としては必ずしも恵まれない学部にしかすぎないという(スティーヴ・フラー氏の証言による).つまりソーカルの,ロスらへの激しい敵意の陰には一種の私怨が隠れていたと考えることができる”(p.111:‘現代思想’誌掲載の論文を本書に収録する際に新たに付加された脚注).



物理学者アラン・ソーカルの書いたパロディ論文(後に“ソーカル事件”と呼ばれる一連の議論のおおもと)は,確かにアンドリュー・ロスが編集長をしていたポストモダン系哲学誌‘ソーシャル・テキスト’に掲載された(1996年).しかし,その動機に“私怨”があったというのは金森の憶測にすぎない.むしろ,自他ともに認める“左派”(p.300)として,当時のレーガン政権と激しく対立していた軍事政権下の ニカラグアの国立自治大学であえて教鞭を執ったこともあるソーカルの思想信条を考慮するならば,“私怨”云々という解釈はもともと無理があるのではないかと私は考える.金森は“これほど‘政治的’含意の強い話題についての証言は,文献がどの陣営のものなのかを見極めたうえで立場上の偏差を割引しながらでないと正確な評価は難しいのかもしれない”(p.418)という.この規範をなぜ著名な科学論者であるフラーの上記証言にも適用しなかったのだろうか.金森によるデータの扱いと解釈はきわめて恣意的であるといわざるをえない.



ある主張をデータによって検証しようとすることは,科学と科学論の別を問わず,合理的論議を進める上での最低限の規範であると私は考える.しかし,上で具体的に指摘したように,立論の基礎となるデータとその解釈に信頼が置けない以上,本書においてはサイエンス・ウォーズそれ自体が,個別的事象としても一般的言明としても,実は合理的論議の対象にさえなっていないことを読者は知るだろう.



金森は,本書とほぼ同時期に翻訳出版されたアラン・ソーカルとジャン・ブリクモン著『「知」の欺瞞』(田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹訳,岩波書店(2000))について,“はるかに単純で単調な問題構制しかもたない”(p.86)として軽く扱っている.しかし,私がみるところ,『「知」の欺瞞』は金森の本には決定的に欠けている“知的誠実さ”のあり方について具体的かつ詳細に論じた本である.



金森が『「知」の欺瞞』ともう少しまともに向き合っていたならば,その本がまさに批判の対象としていた自然科学的概念の哲学者による権威主義的濫用について,“その領域自体を離れて異質領域である特定の自然科学的概念を使用することは,議論に巧みな光を投げかけ生産的霊感を与える可能性をもつ”(pp.136〜137)というような楽観的な発言は出てこなかったのではないか.霊感は,たとえそれが発見的意義をもつとしても,証拠とは異なり合理的な説得力を伴わない.霊感が得られるかどうかは,あくまでも神秘的体験の世界に属することだからである.依拠すべきは,霊感ではなく,理性だろう.



金森はソーカル事件と『「知」の欺瞞』をめぐる騒動を“いささか傲慢で古くさい科学主義の再燃,一種の思想警察の策動”であり“科学論的思想動向への恐怖の発現”と総括する(p.299).しかし,金森が擁護しようとする科学論のどこに怖いものがあるのだろうか.間違いを正しく指摘されたのに“思想警察”だとか“選民意識”(p.138)などといい返すのは感情的応答にすぎない.



科学の社会構成主義(p.205)とりわけエディンバラ学派のストロング・プログラム(p.210)に言及した金森は,それを“高い‘理念’を学的目標として掲げ”たと積極的に評価する(p.212).しかし,社会構成主義にみられる“自然は科学の内容については小さな影響しか与えない”(p.240)という主張は,悪しき相対主義的思考ではなかったか.



科学哲学者カール・ポパーが“現代の哲学的病弊”と呼んだ相対主義に対する厳しい批判,とりわけイムレ・ラカトシュが彼の論敵かつ親友だったパウル・ファイヤー アーベントの相対主義的見解に対して投げた“相対主義者は結局は教条主義さもなければ議論抜きの暴力に頼ろうとするのだ”という批判(I. Lakatos & P. K. Feyerabend: For and Against Method., Univ. Chicago Pr.(1999) p.13)が思い出される.金森の本の中にもフラーのいう科学の“社会科学的管理”(p.262)への肯定的言及がみられるが,科学に対する外からの管理を目指すその意図は露骨である.



“要するに科学者サイドの議論の作り方は,サイエンス・ウォーズという‘大事件’が起こる契機となったこの数十年に及ぶ科学論者たちの仕事をなんら消化しえていないのである”(p.102)と金森は一方的に科学者を断罪する.しかし,科学者は,科学・科学論・哲学思想の別を問わず,知的誠実さのない主張に対して異議を申し立て続けてきただけである.もちろん“科学論者たちの仕事”もまた厳しい批判的検討を免れることはできない.1990年代以降の“サイエンス・ウォーズ”キャンペーンの経緯をつづった本書のレポートを読んだ読者の多くは,そういうキャンペーンを張ってきた科学論の拠り所がどこにあるのかをむしろ問い直してみたいと考えるだろう.現代科学論そのものを批判的に再考する必要性を痛感させたことが,本書のもつ大きな意義であると私は思う.



科学論を構成する科学史・科学哲学は,伝統的に知的誠実さ――すなわちデータに基づく経験的論証の明晰さを求めようとする姿勢――を規範として重んじてきた.しかし,上で具体的に指摘したように,金森の“サイエンス・ウォーズ”論ならびにそれを支持する最近の風潮には,この知的誠実さが見当たらない.金森は,“その戦いが単なる心理的消耗ではなく,互いの切磋琢磨であり,科学という現代社会の最大権力の内省的運動になりうるとするなら,その種の闘いが日本でもできれば存在して欲しいと思わないわけではない”(p.14)と主張する.しかし,知的誠実さのないところに“切磋琢磨”などもともと期待できないのではないか.知的誠実さをあざ笑う相対主義的思潮は“理性への裏切り”という“犯罪”を犯しているのだとラカトシュが見抜いたのは,今から30年以上も前のことだった(上記,Lakatos & Feyerabend(1999), p.394).



金森の『サイエンス・ウォーズ』はたいへん興味深い本であり,手に取る機会があるならば一読をお薦めしたい.なぜなら,それは知的誠実さを欠いている点で,近年まれにみる本だからである.本書はその出版以来,日本の一部の知識人に歓迎され,著者は2000年のサントリー学芸賞や山崎賞を受けるにいたっている.しかし,科学論 における言明のテストに関するきちんとした方法論的検討をしないままに,今のような“サイエンス・ウォーズ”キャンペーンがいつまで続くのかと考えると私は暗澹たる気持ちになる.そのキャンペーンに乗って科学論を鼓舞することは,単なる一時的流行とはなりえても,結果的に科学論のもつであろう重要な社会的意義を損なうことになるだろう.



三中信宏(2001年1月12日/2012年1月2日)







本書評原稿は2001年2月に発行された岩波書店『科学』71巻2号に掲載された(pp.207-209).掲載までの経緯は下記の通り:

  • Original draft 28/July/2000
  • Revision 31/July/2000
  • Second revision 02/August/2000
  • Third revision 17/August/2000
  • Fourth revision 24/November/2000
  • Fifth revision 14/December/2000
  • Sixth revision 7/January/2001
  • Final revision 8/January/2001
  • Proofreading 11/January/2001