『Die Mneme als erhaltendes Prinzip im Wechsel des organischen Geschehens』

Richard W. Semon

(1904年刊行,W. Engelmann, Leipzig → Internet Archive [1920, fifth edition])

カール・G・ユングの『赤の書』やかの『ヴォイニッチ写本』は,図像そのものが直接的衝撃力をもつので身構える余裕がある.一方,いま読んでいるアビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』は,複数の図像群の ars combinatoria で仕掛けてくるので“側面攻撃”のダメージが大きい.先日,慶應の高桑さんとも話をしたのだが,リヒアルト・ゼーモンの「ムネーメ(記憶)理論」がヴァールブルクにどのような影響を与えたのかについては,伝記作者のエルンスト・ゴンプリッチ以来の解釈が現在まで踏襲されているらしい.ゼーモンは現在では「ミーム論」のルーツとしての「ムネーメ論」の提唱者として知られている.たとえば,ディヴィッド・ハルは,「ミーム(meme)論」が必ずしもリチャード・ドーキンスに帰せられる必要はないという立場から,次のように述べている:

ドーキンスの本[『利己的な遺伝子』R. Dawkins 1976]は,新しい用語[「ミーム」]を作り,この進化のユニットに名前を付けた.しかし,選択過程としてのミーム論の概念的・文化的変化の研究は,ドーキンス以前にさかのぼる.たとえば,1904年にリヒャルト・ゼーモン(Richard Semon)は『ムネーメ —— 有機的出来事の変遷過程で保持される原理 —— (Die Mneme als erhaltendes Prinzip im Wechsel des organischen Geschehens)』という本を出版している.この本の英訳は,1914年に,『ムネーメ』というタイトルで出されている.なぜミーム論(ムネーメ論)の始まりを1904年または1914年としないのだろうか? ただし,もしこれらの2冊の出版が,ミーム論のはじまりとされていたなら,ミーム論は,アンジェの主張より,さらにずっと進歩を遂げていないものとみなされていただろう.ほとんど100年近くもの間,概念的,経験的な進歩を遂げていなかったことになるのだ!」(「ミーム論をまじめに取り扱う —— ミーム論はわれらが作る ——」 所収:ロバート・アンジェ編[佐倉統他訳]『ダーウィン文化論:科学としてのミーム』2004, 産業図書,東京,p. 59)

20世紀はじめのゼーモンはアウグスト・ヴァイスマンら正統派メンデル遺伝学と対立する異端として広く知られていた.アーサー・ケストラー『サンバガエルの謎』の主人公である遺伝学者パウル・カンメラーの親友であり,ともにネオ・ラマルキストとしての信念を掲げた.最期はふたりとも自殺したのだが,カンメラーの場合は研究上の行き詰まりが理由だったのに対し,ゼーモンの場合は離婚問題が理由だったという.ゼーモンの学問的ルーツは,イエナ大学のエルンスト・ヘッケルのもとで学んだ動物学にあった.彼は,終生ヘッケルに同調し,ムネーメ理論はヘッケル最晩年の著書『Kristalseelen(結晶の魂)』への支持でもあった.ヴァールブルクがゼーモンのムネーメ理論から影響を受けたとするなら,どこかしらで良くも悪くもネオ・ラマルキズムのフレーバーが残っているはず.このとき「情念定型」がキーワードになる.高桑さんのご教示によれば,ゼーモンの本書はイタリアの『Aut-aut』誌のヴァールブルク特集号(Vol. 199/200, 1984年)で抄訳されているとのこと.

こんなことやあんなことをつらつらとつなぎあわせつつ“電話帳”のページをめくっていると,しだいに取り憑かれて疲弊する.『ムネモシュネ・アトラス』こわいよ状態.