「深いフトコロが埋め立てられると」

つい先日のことだが,とある出版社から「統計本を一冊書きませんか」とのオファーが提示された.しかし,このところのドロナワな状況を考えると,さすがにムリなので,「ごめんなさい」メールを返信.短期的に出せるアイデア量に上限があるように,近未来的に達成可能な労働量にも上限がある.いわゆる〈文債〉を抱え込むことはそろそろやめにしないとね.

長期の夏休みもサバティカル制度もない独法研究員が本を一冊書くことは綱渡りを続けるようなもの.代償として多くのものを放置しているわけで,それに耐えられないと本は書けない.単著の本に関して言えば,ワタクシの場合,もっぱら出版社側からのオファーを受けて書き始めるので,それはたいへんありがたいと思う.ただし場合によっては「ごめんなさい」と断ることもある(すみませんすみません).ときどき「どうやって出版社を見つけるの?」と同僚から訊かれることがあるが,自分から原稿を持ち込んだことはぜんぜんないので答えようがない.

そういうことを考えると,初めてワタクシに単著のオファーを出してくれた東京大学出版会には今でも深く感謝している.その本『生物系統学』の第四刷に向けての作業はいま進行中だ.『生物系統学』の最初の企画提案が東大出版会からあったのはワタクシが35歳のときだった.もともとは『分岐分類学:系統と進化を探る方法論』というタイトルで,分岐学(cladistics)の解説本になるはずだった.しかし,原稿を書き始めた1990年代はワタクシが研究者としてどんどん「不良化」していた時期で,内容的にも生物体系学の一学派にとどまらなくなってきた.途中で,担当編集者から『生物系統学』にしませんかとのプロポーザルがあって,名実ともにその通りになった.結果として執筆に五年ほどかかった末,39歳のときに出版にこぎつけた.今にして思えば,得体のしれない書き手に好き放題書かせてくれた東大出版会には感謝するしかない.

現在の独法研究所の置かれている状況だと,研究員が「本を書く環境」はさらに悪くなっているだろう.「糊しろ」や「溜め」を保証する人員あるいは研究資本がやせ細ってきたので,かつてはあったはずの「深いフトコロ」がどんどん埋め立てられている気がする.だから,「本を書くこと」の代償やリスクは以前よりも大きくなっているのかもしれない.いろいろあるけどそれでも本を書きますか?って感じ.同じ農学分野でも,農業経済だと「単著本」はとても評価が高いが,それ以外の(自然科学系の)農学分野だと,当然のことながら,査読付きペーパーが重視される.査読論文を書きながら単著本も書けというのは「二人分生きろ」ってことと同じ.

研究者としてキャリアが存続するかぎり,「積分範囲」はどんどん大きくなり,結果として自分の立ち位置が鳥瞰できるようになる.しかし,年取ってから懐古的に「守りの本」を書くよりも,まだ自分がどうなるかわからないときにしか書けない「攻めの本」の方がワクワク感が高い.そういう本を書けるチャンスがある研究者は機会を逃さず書いてほしいと思う.

—— 論文と本では流れる時間が異なっているので,論文を書くときの「微分主義」的な研究者スタンスとともに,本を書くときの「積分主義」的な研究者人生観をもつ必要がある.