『書評紙と共に歩んだ五〇年』

井出彰

(2012年12月25日刊行,論創社[出版人に聞く・9],東京,viii+178 pp., 本体価格1,600円,ISBN:9784846011970

図書新聞」の編集長が語る戦後日本の出版業界と書評業界の有為転変.インタビュアーは小田光雄.一方的なモノローグではなく,緊迫感のあるダイアローグ.日本の出版業と「書評メディア」の現状に切り込む.オススメ.1960年代の左翼系出版社の動向とそれを支えてきた個人の足跡が語られる.由良君美山口昌男がほんのちょい役で登場したりする.「総会屋出版社」は初耳,『本の雑誌』に対する批判的視線が興味深い.本について論じる「書評」のけっして明るくない未来が述べられている:

  • 「いつの頃からか、新聞をはじめ、かなりの雑誌にも書評欄が設けられるようになった。たいていは五百字、六百字のものである。そして、これが書評だと思いこまれるようになってしまった。これらは書評ではなく紹介なのである。簡単に外観だけ、うわべを舐める程度に紹介するだけだ。これは、今日の日本文化の有り様と対応する。肝心の中身に分け入って論じられることはない。またそのスペースもない」(p. 168)
  • 「当時はオーバーにいえば、在野の人もアカデミズムの人間もみんながそれなりに身体を張り、わずか三、四枚の書評原稿に生活や思想をこめて書き、それが文体にみなぎっていた。」(p. 138)

全国紙の書評欄について:

  • 「まず最初にくるのは書評枚数の問題で、四百字二枚弱程度で、どのような本でも書評するというのは無理がある。『図書新聞』の場合、前は四枚だったけど、あるときから本によっては五枚から六枚にしている。それでないと独立した書評とはいえず、二、三枚では帯文か推薦文の延長にすぎない。」(p. 151)
  • 「全国紙は書評委員制にほぼ統一されてしまった。そうなってしまうと,著者と書評担当者の組み合わせの面白さは消えてしまうと断言してもいい。結局のところ、固定した仲間内で順番に書評を書いているわけだから、これは多くの人の目にふれる書評であり、開かれていなければならないにもかかわらず、きわめて閉鎖的なことを意味している。」(p. 152)
  • 「だからこの本に対してはあの人に書いてもらおうという書評紙的スタイルでやっているのは『東京新聞』だけになってしまった。」(p. 153)

日本における書評文化の現状について:

  • 「それにもっと実感するのは書評文化が成立していないということだね。」(p. 158)
  • 「読書好きの日本人といわれながらも、実は雑誌が主で、必ずしも書籍を意味しておらず、出版市場もそれに対応するもので、新刊の単行本の書評紙を支える読者層は確立されていなかったということになるのかな。」(p. 160)

確かに,去年,アビ・ヴァールブルク[伊藤博明・加藤哲弘・田中純(訳・解説)]『ムネモシュネ・アトラス』(2012年3月30日刊行,ありな書房[ヴァールブルク著作集・別巻1],東京,765 pp., 本体価格24,000円, ISBN:9784756612229書評版元ドットコム)を書評(図書新聞2012年6月16日号)したときは2000字ほど書かせてもらった.2004年にもダーウィン関連本の書評を『図書新聞』に出したが,そのときも同じくらい書いた.

なお,「書評」そのものについてのワタクシ自身の考えは:三中信宏書評ワールドの多様性とその保全について」(2011年5月5日)に書いた通りだ.