『京都の平熱:哲学者の都市案内』

鷲田清一|写真:鈴木理策

(2013年4月13日刊行,講談社講談社学術文庫・2167],東京,275 pp., ISBN:978-4-06-292167-1目次版元ページ

【書評】※Copyright 2013 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

 

京都に生まれ育った著者による京都ガイド.とは言っても,いわゆる “観光ガイド本” ではまったくなく,現在の京都の地図に著者なりの私的な “古地図” を重ね合わせたようなスタイルで洛中一周の路線バスツアーが綴られている.

 

「東へ」の章:何年ぶりかで京都駅前にあったデパート「丸物(まるぶつ)」の名前を目にした(p. 20).なつかしいなあ.

 

「北へ」の章:奇人・変人の巣窟だったという京都.とりわけ九鬼周造のエピソードがとてもおもしろい.こう書かれている:「京都帝国大学時代は祇園お茶屋からタクシーで講義にでかけたこと,午後は芸妓や舞妓をつれて寺町をそぞろ歩いた」(p. 91).祇園から大学に通ったセンセイの話は昔から知っていたが「九鬼周造」がそのひとりだったとは知らなかった.九鬼周造,おそるべし.

 

「西へ」の章:京都府知事を長年にわたって務めた蜷川虎三は「統計学者」だったと書かれていてビックリ(p. 156).確かに敗戦前の蜷川は,京大経済学部で統計学を専攻し,『統計学概論』などの著作もある.そういうキャリアだったとはぜんぜん知らなかった.ワタクシは蜷川府政まっただ中の1970年代に京都の府立高校に在籍していたので,蜷川の「高校三原則」がもたらした “末世” の風景を実体験している.「十五の春は泣かせない」代わりに「十八の春で大泣き」し,「峠の向こうに春がある」代わりに「峠の向こうに崖がある」ことも知っていた.府立高校の普通科・商業科・家政科がすべて同一クラスに混ざり合っていたのも日常なら,早朝の国鉄の駅頭で数学の担当教師が『赤旗』を配るのも日常だった.当時の府立高校は「教える場」でもなければ「教わる場」でもなかったのだろう.ただひとつ幸いだったことは,そのような「場」を欠席し続けても誰も責めなかった点だった.ワタクシはたまにしか高校に行かなかったが,進級も卒業もさせてもらった.教えないけれども自由にさせてくれた点で,当時の府立高校はありがたい存在だった.ワタクシの場合は不登校気味だったので内申書は芳しくなかったが,大学入試にはそんなのは何の関係もなかったしね.さいわい東京大学は昔も今も内申書の “中身” は何一つ見ない大学だった.

 

「南へ」の章:森毅が小学生の女の子の会話「あんまりほんまのこと言うもんやないえ」(p. 197)に京都ならではの〈ゲニウス・ロキ〉(p. 198)を感じ取って驚愕するエピソード.「京女」にはぜったい勝てまへん.

 

かつて一度だけ父親に連れられて,ある日の夕暮れに裏寺町通のとある飲み屋に行ったことがある.河原町通新京極通にはさまれた裏寺町通はその名が示すとおりの細い “裏道” だった.コの字型のカウンター席のみの形式の飲み屋は今ではなじんでしまったが,当時は初体験でいささか緊張していたかもしれない.父親は会社員時代からよく通っていたらしく,「これがうちの息子でして」と店の主人に紹介していたことを思い出す.その父も一昨年に他界した.夕闇のとばりが降りた裏寺町は,著者の言葉を借りれば,京都のあちこちに開いているという “穴” のひとつだった.逢魔が時にここを通ってはならぬ.

 

本書はかつての京都に「確かにあった日々」をちゃんと書いているようだ.“私小説” 的な本なので,著者の体験と共有部分をもてるすなわち自分の過去を重ね合わせる読者にとっては没入できるだろう.一方,そういう共有体験をもたない読者は最初から排除されている.この本を読んで疎外感を味わった読者は単に “選ばれなかった” だけで気にすることはまったくない.その意味で読者を厳しく選ぶ本.本書そのものが良くも悪くも “京都的” だ.

 

三中信宏(2013年4月18日/2013年4月19日加筆)