「本への「書き込み」について(続)」

筑波大学附属図書館「本に書き込みすることに関する資料集」(2014年1月20日)がしばらく見ないうちにさらに追補されていた.

ワタクシの場合,本への「書き込み」とか「付箋貼り」は昔からしている.たとえば,下の写真の本は修士1年のときに読了した分岐学の教科書:Niles Eldredge and Joel Cracraft 『Phylogenetic Patterns and the Evolutionary Process: Method and Theory in Comparative Biology』(1980年刊行, Columbia University Press, New York, x+349pp., ISBN:023103802X [hbk])の最終ページだ.生まれて初めて通読した英語の専門書だった.傍線を引き,メモ書きし,読了日を記すというこの書き込みスタイルは今でもまったく変わっていない.


また,次の写真は付箋紙の貼り込みの一例だ.この三巻本はエルンスト・ヘッケルが愛人と交わした書簡集:Norbert Elsner (Hrsg.)『Das ungelöste Welträtsel: Frida von Uslar-Gleichen und Ernst Haeckel [3 Bände]』(2000年刊行,Wallstein Verlag, Göttingen, 1341 pp., ISBN:3892443777 [set] → 紹介).本の “小口” にはテキストへの付箋を,そして “天” には図版への付箋を貼っている.


本への書き込みについては前に記事を書いたことがある:leeswijzer「本への「書き込み」について」(2013年12月6日).この記事の中で,ワタクシは次のように書いた:

図書館本に勝手に “書き込み” をするのは論外の行為であり,図書資料を「保存」する立場からはもっともなのだが,それは私蔵本には適用されない.書き込みしたければ自分で本を買えということ.書き込み本は極度にパーソナライズされた物件なので,他者が手に取ることを前提としていない.

ところが,前掲記事を書いた筑波大学図書館のライブラリアン氏はそうは考えていないようだ:

読書法について書かれた文献の大多数では、同居家族との関係という観点がすっぽり抜け落ちています。 本は、衣類と同様に、特定個人の独占的な所有物とみなされ、家庭内でも共有しない場合が多いようです。 家庭内では、皿や汁椀は誰のものとも特定しない同じ型のものを共用するのに対し、箸や茶碗は、誰のものかが銘々に固定的に決まっている傾向があります。 私物図書を、属人性の高い、自分ひとりだけの占有物とみなしている文献が圧倒的に多いようです。同居家族を、自身と同じく本を読む人間であるとはおよそ考えていないように見受けられます。

「同居家族との関係という観点がすっぽり抜け落ちています」という指摘はむしろ異様であって,どこからそんな発想が浮かぶのかが理解できない.ワタクシ的には,読書はきわめてパーソナルな行為なので,たとえ同居家族がいようがいまいが,図書を “共有” するという発想はどこからも出てこない.自分の「指」や「耳」は同居家族とは “共有” が不可能である.それくらい,家庭内であっても図書の “共有” はありえない.同じ本が必要ならば各人がそれぞれ買って,自分用にパーソナライズすればいいだけのことだろう.

こと「本」の扱いに関しては,ライブラリアンと一般読者との間に越えられない “溝” があるようだ.そんなに図書を保存したけりゃ,ガラスケースに入れて鍵をかけておけばいいんじゃない? ライブラリアンにいくら文句を言われても,読者の立場から言わせてもらえば,本は書き込みや付箋によってしっかり “身体化” しないと読んだことにならない.もちろん,そういうパーソナライズは図書館から借りた本ではなく,自分で買った本に対して行わないといけない.その最低ラインさえ守られているならば,自分がもっている私物本のパーソナライズに対してあれこれ外野が口出しするのは,まさに「It’s not your business」ということね.他にやることがたくさんあるでしょう.