『文系学部解体』

室井尚

(2015年12月10日刊行, 角川書店[角川新書・K-58], 東京, 238pp., ISBN:9784040820514目次版元ページ|著者ブログ〈短信〉)

国立大学がたどってきた経緯を振り返り,文系分野に対する国からの “逆風” は昔から一貫していたと書く.歴史的文脈を知る上で有用.

本書で印象に残った言葉のひとつ:「手続き型合理性」― すなわち,組織の管理運営・経費処理・問題対応に関するこまごまとした事務的な「手続き」をひたすら要求する姿勢を著者はそう呼ぶ(p. 156-157).この「手続き型合理主義」のやっかいな点は,その「手続き」を踏むことで何かしら有意義な結果がもたらされたか,意味のある効果があったかの検討がいっさいなされないこと.「手続き」を踏むことにのみ意味があるという非生産性が貴重な時間と労力をどんどん削りとる.悪く言えば「ちゃんとやることはやったよ」と組織側が弁解するための「手続き」に過ぎないので,言われた側としては負担にならない程度に “てーげー” に対応してすませるようになる.

この本を読むと,かつての「古き良き国立大学」へのあこがれをもつ読者がいるかもしれない.もちろん教員にとっては “自由かつ多様” だったかつての国立大学は失われた楽園だろう.昔の国研もそれはそれは自由すぎる楽園だったことをワタクシは記憶している.本書に出てくる「すき間」「空き地」「ノイズ」という言葉が表すものをいまの国立大学や国研が取り戻せるのかと問われれば口ごもるしかない.というか,すでに個人レベルでの “防衛戦” に徹するしかないのかも.

著者の言う “アカデミー” あるいは “私塾” というアイデアは大学の外で新たな学びの場をつくろうという提案なのだろう(たとえば〈国立人文研究所〉のような).学問分野としての蓄積性とか継承性を度外視するならば,それも選択肢のひとつとなるのかもしれない.ただし,そういう「外」に研究活動の場をつくれるかどうかは個別科学によって大きなちがいがあるだろう.著者が想定している “文系” 分野ならばそれは可能であると楽観できるのだろうか.

—— 関連情報いくつか:短信「全国の国立大学をこのまま国(文科省)の奴隷にしていいのか!」(2016年1月16日)※早くも『文系学部解体』の続編が書かれつつある./横浜国大学生有志主催〈人文社会系学部の縮小に抗議する集団行進〉.