『農業技術研究所八十年史』

農業技術研究所80年史編さん委員会(編)

(1974年12月13日刊行,農業技術研究所,東京, XVIII + 724 pp. → CiNii Books

わけあってかつて東京都北区西ヶ原にあった農技研のことを調べている.旧・農技研の通史である本書は700頁あまりもある電話帳だ.本書が出版される前年に『未定稿』(→ CiNii Books) なるものが配布されたようで,現在では定本である『八十年史』よりも『未定稿』の所蔵館の方が倍近く多いのは皮肉なことだ.さらに,『未定稿』刊行10年後のつくばに移転する直前1983年11月に100頁余の『追補』(→ CiNii Books)が出されている.

ワタクシにとっていま必要なのは,『農業技術研究所八十年史』の中の「物理統計部」に関する10頁ほどの記述だけだ.旧農技研は日本の農業試験を先導したのだが,1930年代に Ronald A. Fisher 流の無作為化による誤差の偶然化に基づく実験計画法の導入する試みは,誤差そのものを排除しようとする「精密実験法」なる真逆の手法が当時幅を利かせていたため大きく停滞し,第二次世界大戦敗戦後の連合国軍総司令部天然資源局による上からの指導によりやっと定着したという.スネデッカー&コクラン『統計的方法』の翻訳者である畑村又好やその後の日本の統計学を主導する奥野忠一らは戦後の旧農技研でその活動を開始した.物理統計部はその牙城だった.

畑村又好はのちにワタクシの出身研究室である東大農学部「生物測定学研究室」の教授になり,奥野忠一は東大工学部計数工学科に移る前は今ワタクシがいる農環研の研究室のルーツである旧農技研「試験設計研究室」の室長だったので,いろいろと絡み合っている.物理統計部がらみの関係者の多くはかつて個人的に接点のある人たちだったが,もう引退してそろそろ “向こうの世界” に去り始めている.今日から電農館で始まる「数理統計研修」もその始まりは1964年とのことなので,もう半世紀を超える歴史があることを知った.さらにさかのぼれば,その16年前の1948年に,畑村と奥野は早くも各農試の種芸主任を集めて「統計講習会」を開催していたという.

歴史の長い研究機関に所属しているとそれはそれは “昔話” がたくさんある.今の若い世代の研究員たちは自分が生まれる前の事情なんかきっと何も知らないだろうけど,ときどき「一皮剥く」お仕事はワタクシたちの世代の責務かもしれない.とくにワタクシは気分的には “外のひと” なので.半世紀前の奥野忠一は九州各県の農試をまわって実験計画法の講習会を開いていたという.ワタクシがいま同じような九州巡業をやっているのも何かの “縁” かもしれない.ただし,ワタクシの場合はあくまでも「オモテの仕事」として引き受けているにすぎないけど.

日本における農業試験への統計的手法の導入史については次の文献がある:伊勢一男 2006. 日本の農業研究における統計学的実験計画法導入の初期について.生物科学, 57(3): 172-182.



備忘メモ:第二次大戦後に農技研で統計学の推進を旗振りした種芸部長・福島要一は当時の日本ミチューリン協会の会長だったはず.ワタクシはのちに六本木の日本学術会議自然保護研連で福島要一本人と対面することになる.旧・農技研が日本共産党の “細胞” のひとつだったことはよく知られている.福島要一が日本共産党に後押しされたルイセンコ派(ミチューリン運動)の要職にあったのもそのつながりだろう.のちに「メーデー事件」で逮捕長期勾留される伊藤嘉昭もこのころの農技研にいた.西ヶ原時代の昆虫科については:岩田俊一(責任編集)・昆虫科西ヶ原OB会有志『農技研昆虫科 ― 西ヶ原三十年の記憶』(2013年4月発行,非売品, ii+67 pp.)という冊子がワタクシの手元にある.伊藤嘉昭も「メーデー事件被告に研究を許し続けた「農研・昆虫科」」という回顧記事を寄稿している.