『「蓋然性」の探求:古代の推論術から確率論の誕生まで』4〜5章

ジェームズ・フランクリン[南條郁子訳]
(2018年5月15日刊行,みすず書房,東京, viii+609+88 pp., 本体価格6,300円, ISBN:9784622086871目次版元ページ

第4章「疑う良心・道徳的確実性」に進む.蓋然性の論議は中世法学から道徳神学へと移る.12世紀以降の蓋然性の論議は,数学や科学の分野ではなく,倫理と道徳と結びついていたと著者は言う(pp. 106-108).道徳的に疑わしい事案に関する「疑う余地のある問題ではより安全な道を選ぶべし」(p. 110)というインノケンティウス3世の格言は,証拠に基づく蓋然性の相対的評価法を意味していた.



中世の道徳神学では「蓋然主義(probabilism)」—「道徳問題では,たとえより蓋然的な意見には反していても,蓋然的な意見になら従ってもかまわない」(p. 122)という教義—が重要な論点だった.16世紀のフランシスコ・スアレスは推論に対する「陰性の疑い」と「陽性の疑い」の観点から考察した.スアレスは証拠のもつ相対的な重みをどのように評価するかに着目したが,彼が提起した「蓋然性のランキング」の問題は決着がつかなかった.つまり「仮説の正否の証拠がほとんどない場合」と「仮説の正否の証拠がたくさんあって拮抗している場合」の区別という問題である(p. 128).



第4章の道徳神学の話題はあまり馴染みがなかったが,続く第5章「弁論術、論理学、理論」でまた目が覚めた.蓋然性を厳密な数学にもちこもうとする立場に抗して,ギリシャ時代以来の「弁論術(レトリック)」—データに基づく非演繹的論法—に結びつけようとした論議が本章の主題となる.「弁論術では—とアリストテレスは言う—演繹的論証はめったに役に立たない.なぜなら,人間の行為にかんする討議は偶有的なものを扱うからだ.必然的に決まるものはほとんどない.だから本当らしい事柄(eikoton)としるしを使わなければならない」(p. 179).著者はここでアリストテレスのいう「エンテュメーマ(弁論術的推論)」(p. 181)を引用し,非演繹的な推論の形式が当時の弁論術と蓋然性とを結びつける要点の一つだったと指摘する.しかし,残念なことに,このエンテュメーマの理論は必ずしも十全に発展することはなかったと著者は言う.



アリストテレスの「エンテュメーマ」という論証法が,「最善の説明に向けての推理」すなわち「アブダクション」に他ならないことは,カルロ・ギンズブルグ[上村忠男訳]『歴史・レトリック・立証』(2001年4月16日刊行,みすず書房,東京, 212 pp., 本体価格2,800円, ISBN:462203090X目次書評版元ページ)の pp. 66-67 で指摘されている(ワタクシの『系統樹思考の世界』の pp. 64-65 でも言及).ギンズブルグはこう述べている:


バーンイェイトが指摘しているところによれば,それらしき証跡からのエンテュメーマというアリストテレスのより緩やかな定義には『「最善の説明に向けての推理」(より古い言い方では,結果から原因へとさかのぼっていく推理)のような不可欠の推論様式』が含まれているのであって,『そのような推論様式が認められないと,弁論術や議会での審議ばかりでなく,医学もまた,その活動の幅を厳しく縮減されてしまうことにならざるを得ない』という」(ギンズブルグ 2001, pp. 66-67)



蓋然性に関する論議が,数学(論理学や幾何学など)などの「ハードサイエンス」ではなく,弁論術や法学あるいは神学のような「ソフトサイエンス」(p. 198)の中で長年にわたって続けられてきたという著者の指摘はたいへん興味深い.著者は蓋然性の厳密な数学的議論ばかりに着目するのは偏向だと言う.