『「蓋然性」の探求:古代の推論術から確率論の誕生まで』12章

ジェームズ・フランクリン[南條郁子訳]
(2018年5月15日刊行,みすず書房,東京, viii+609+88 pp., 本体価格6,300円, ISBN:9784622086871目次版元ページ

最後の第12章「結論」に進む.蓋然性(確率)がたどってきた歴史の道のりを解明しようとする作業は容易ではなかったと著者は告白する:

「アイデアの歴史的発展についても同じことがいえる.潜在意識を浚渫して,埋もれた知識を掘り出すのは長期にわたる苦しい作業である.確率の歴史を,暗黙のうちにはすでにあった概念がしだいに明示化されてきた例として見ると,他の見かたではうまく説明できなかったさまざまな事柄が説明できる」(p. 514)

一方,本書が標的とするイアン・ハッキング[広田すみれ・森元良太訳]『確率の出現』(2013年12月28日刊行,慶應義塾大学出版会,東京,viii+394 pp., 本体価格3,800円,ISBN:9784766421033版元ページ)の第1章では,近代的確率の出現の “前夜” についてはほとんど何もわかっていなかったと述べられている.アイザックトドハンターの確率論史本『確率の数学論史 —— パスカルからラプラスまで』に言及しつつ,ハッキングはこう書いている.

「[トドハンターの]この題名は非常に的確である.というのも,パスカル以前には記すべき歴史がほとんどないのに対し,ラプラス以降,確率関連の文献は詳しく説明するのがほぼ不可能なほど〔数多く〕刊行され,確率は十分理解されたからである.トドハンターの著作六一八ページのうち,パスカルの先人について論じているのはわずか六ページだけである.〔また〕この著作以降もパスカルの先人についての研究は進展の余地があったにもかかわらず,現在でもわずか数点の初期の覚書や未刊のメモ書きをたまたまみつけることしかできずにいる.しかし,『パスカルの時期』になると,確率という出現してきた考え(emergent idea)をすべての市民が認識したのである.歴史を哲学的に研究するには一六六〇年頃に起こったことを記録するだけでなく,どのようにして確率という基本概念が突然出現しえたのかを思索しなければならない」(ハッキング 2013, 訳書 pp. 1-2)

『「蓋然性」の探求』を読了してわかることは,近代的な確率概念はけっして「突然出現」したのではなく,アリストテレス以来の中世スコラ学における弁論術(エンテュメーマ)を踏まえた経験的な非演繹的推論の技法とローマ法を淵源とする法的な証拠の評価と推論に関する何世紀にも及ぶ議論が背景としてあったという点だ.蓋然性(確率)は,それが数学化されるされないにかかわらず,それぞれの時代を生きた人間にとって身近なものだった.

蓋然性の認知心理的基盤がまぎれもなく “生物学的” であるという指摘(p. 515)は,数学化以前に,それが文字化・記号化されているかどうか,さらにはそもそも意識されているかどうかさえ超越している可能性を示唆する.いま一度,冒頭の「序」に戻ると,フランクリンは確率的推論を段階化していた(p. 2).

  1. 「無意識な推理.つまり,不確実な状況に対して記号未満のレベルで起こる,脳の自動的な反応」
  2. 「日常言語を用いた,さまざまな事柄の蓋然性についての推論.この中間レベルが本書の大きな主題である」
  3. 「確率や統計の教科書に出ているような,数式を用いた数学的な推論」

「すべての蓋然性に数値があたえられなければならないか」(p. 519)という著者の問題提起は,本書が念頭に置いている蓋然性(確率)の幅広いスペクトラムを考えれば納得できるだろう.

「したがって昔の著作にあたるときに大事なことは,17世紀に新しく始まったこと(つまり,数値化)の予兆を探すことではなく,むしろ,のちに定量化されたものもされなかったものも含めて,確率的事象について何が言われていたかを見出そうとすることである.蓋然性に数値があたえられていなかった時代に見出すことが期待できる,非演繹的論理の断片をいくつかあげてみよう」(p. 520)

これに続く節では,著者の主張を支持する実例(論証的推論・三段論法・有意性・帰納・類推など)が挙げられている.

では,なぜ数学的な確率概念がパスカル以前にはなかったのか.この問いに対して,フランクリンは「17世紀がそれまでの時代と明らかに違う点は,基礎数学の文化全体が成長したことである」(p. 526)と指摘した上で:

「確率論がなぜもっと早く現れなかったのか,という問いに一言で答えるなら,“数学が難しいから” がその答えである.応用数学はそれに輪をかけて難しい」(p. 529)

と結論する.これは,数学的リテラシーの浸透とも関連するのだろうが,著者のもうひとつの答えはより根本的かもしれない.

「数学的蓋然性の発達を遅らせたと考えられる最後のそれらしい要因は,偶然の科学は存在しえないという信念である.なぜなら偶然とはまさに科学の手を逃れるものの名なのだから.これは自然な信念であり,アリストテレスの権威に支えられていた.[中略]一回生の偶然事象に注目することで,アリストテレスは偶然を,説明や理論を受けつけないものとして見る.」(p. 531)

一回限りの偶然的なできごとが合理的な説明の対象ではないというこの信念は,中世的な「運命の輪」の寓意によって裏打ちされていると示唆される.

「確率の理論の出現が遅れた理由のひとつは,運命の車輪に象徴される不可避の運命という考え方が,偶然にかんして今日の概念と張り合うような概念を提供していたからだ,と論じることはできるだろう.しかしこの見解を支持する決定的な証拠を見つけるのは難しい.確率的な議論は結して運命の議論とともには生じないが,そのことがこの見解を支持する証拠といえるかどうかは難しい問題である.『偶然の科学は存在しない』という考えと,運命の車輪という考え方はともに,偶然と非理性のもっと深いところでのつながりを示唆しているのかもしれない.」(p. 534)

現代のわれわれにとってなじみ深い “数学的” な確率論と統計学のすぐ裏側に,もっと広くそして “非数学的” な蓋然性の世界が広がっているという著者の結論は,エピローグにつながってく.