『「蓋然性」の探求:古代の推論術から確率論の誕生まで』(書評まとめ)

ジェームズ・フランクリン[南條郁子訳]
(2018年5月15日刊行,みすず書房,東京, viii+609+88 pp., 本体価格6,300円, ISBN:978-4-622-08687-1目次版元ページ

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非演繹的論証法としての蓋然性のルーツ

確率論史の超弩級本.700ページ超の厚さに文字テキストがみっしり詰まる.原註にいたってはOED縮刷版を読む視力が必要.確率論史に関してはすでに:イアン・ハッキング[広田すみれ・森元良太訳]『確率の出現』(2013年12月28日刊行,慶應義塾大学出版会,東京,viii+394 pp., 本体価格3,800円,ISBN:978-4-7664-2103-3目次版元ページ版元特設サイト)を読んでおなかいっぱいになっていた.しかし,「二千年以上にわたる蓋然性の歴史を、法・科学・商業・哲学・論理学を含む圧倒的に広範な領域で調べ上げ、ハッキングの『確率の出現』の成功以来信憑されてきた単純すぎる確率前史を塗り替える」(版元ページから)— などと煽られれば,これまた完読しないわけにはいかない.束の厚みが4センチもある本書はさすがに歩き読みできないので,机に向かって黙々と読み進んだ.確かに,ある研究分野の歴史は調べれば調べるほど予想以上に錯綜していることがわかる.

 

第1章から第4章までの160ページは古代から中世にかけての法学と神学が議論の舞台だ.第1章「古代の証明法」・第2章「中世の証拠法 —— 嫌疑、半証拠、審問」・第3章「ルネサンスの法」は,古代からの法学における証拠の扱いと裁定の規則が確率(蓋然性)の概念的根幹をなしていると指摘する.つまり,証拠に基づく推論の構造に関する考察は中世より前にすでに深められていた.古代ローマ法におけるキーワードのひとつに「徴候(indiciis)」という用語がある(p. 18).著者によれば,この「徴候」とは「状況証拠」(p. 33)を指しているとされる.徴候という言葉が証拠と同義であるとすると,かねてから引っかかっていたワタクシの疑問のひとつがきれいに解決する.

 

カルロ・ギンズブルグが著書:カルロ・ギンズブルグ[竹山博英訳]『神話・寓意・徴候』(1988年10月刊行,せりか書房ISBN:4-7967-0156-7)で提示した「un paradigma indiziario」という言葉は「徴候解読型パラダイム」と訳されてきた.ワタクシは『思考の体系学』や『統計思考の世界』でこれに言及するときは「痕跡解読型パラダイム」とあえて意訳した.以来ずっとこの訳でよかったのかどうか気になっていたのだが,『「蓋然性」の探求』の著者が「徴候」とは古代法学的には「証拠」の意味であると示唆したことにより,ギンズブルグの「徴候解読」あるいは「痕跡解読」とは要するに「証拠の解読(証拠からの推論)」だったことがわかって一安心した.

 

また,十年あまり前に読んだ,あの C. R. Rao 老師のある文章には,統計的推論には「法学的スタンス(a forensic attitude)」が必要だと書かれていた:C. R. Rao 2004. Preface in: Mark L. Taper & Subhash Lele (eds.)『The Nature of Scientific Evidence: Statistical, Philosophical, and Empirical Considerations』(2004年,The University of Chicago Press, Chicago, ISBN:0-226-78957-8), p. xi.当時は「どうしていきなり “法学的” という言葉が統計学の文脈で出てきたのか?」といぶかしく思った.しかし,「証拠からの推論」が古代法学からの伝統であるのであれば,確かに今の統計データ解析とのつながりがあることはまちがいないだろう.すとんと納得できた一瞬だ.

 

通常理解されている「確率」の数学的概念をもっと裾野の広い「蓋然性」という非数学的概念として理解し直そうというのが本書の視点だ.著者は序の中で,確率的推論を「無意識的な推理」から「数学的な推論」への移行として捉えている(p. 2).確率や統計のリクツの背後には仄暗い背景が広がっている.

 

第4章「疑う良心・道徳的確実性」に進む.蓋然性の論議は中世法学から道徳神学へと移る.12世紀以降の蓋然性の論議は,数学や科学の分野ではなく,倫理と道徳と結びついていたと著者は言う(pp. 106-108).道徳的に疑わしい事案に関する「疑う余地のある問題ではより安全な道を選ぶべし」(p. 110)というインノケンティウス3世の格言は,証拠に基づく蓋然性の相対的評価法を意味していた.

 

中世の道徳神学では「蓋然主義(probabilism)」—「道徳問題では,たとえより蓋然的な意見には反していても,蓋然的な意見になら従ってもかまわない」(p. 122)という教義—が重要な論点だった.16世紀のフランシスコ・スアレスは推論に対する「陰性の疑い」と「陽性の疑い」の観点から考察した.スアレスは証拠のもつ相対的な重みをどのように評価するかに着目したが,彼が提起した「蓋然性のランキング」の問題は決着がつかなかった.つまり「仮説の正否の証拠がほとんどない場合」と「仮説の正否の証拠がたくさんあって拮抗している場合」の区別という問題である(p. 128).

 

第4章の道徳神学の話題はあまり馴染みがなかったが,続く第5章「弁論術、論理学、理論」でまた目が覚めた.蓋然性を厳密な数学にもちこもうとする立場に抗して,ギリシャ時代以来の「弁論術(レトリック)」—データに基づく非演繹的論法—に結びつけようとした論議が本章の主題となる.「弁論術では—とアリストテレスは言う—演繹的論証はめったに役に立たない.なぜなら,人間の行為にかんする討議は偶有的なものを扱うからだ.必然的に決まるものはほとんどない.だから本当らしい事柄(eikoton)としるしを使わなければならない」(p. 179).著者はここでアリストテレスのいう「エンテュメーマ(弁論術的推論)」(p. 181)を引用し,非演繹的な推論の形式が当時の弁論術と蓋然性とを結びつける要点の一つだったと指摘する.しかし,残念なことに,このエンテュメーマの理論は必ずしも十全に発展することはなかったと著者は言う.

 

アリストテレスの「エンテュメーマ」という論証法が,「最善の説明に向けての推理」すなわち「アブダクション」に他ならないことは,カルロ・ギンズブルグ[上村忠男訳]『歴史・レトリック・立証』(2001年4月16日刊行,みすず書房,東京, 212 pp., 本体価格2,800円, ISBN:4-622-03090-X目次書評版元ページ)の pp. 66-67 で指摘されている(ワタクシの『系統樹思考の世界』の pp. 64-65 でも言及).ギンズブルグはこう述べている:

 

「バーンイェイトが指摘しているところによれば,それらしき証跡からのエンテュメーマというアリストテレスのより緩やかな定義には『「最善の説明に向けての推理」(より古い言い方では,結果から原因へとさかのぼっていく推理)のような不可欠の推論様式』が含まれているのであって,『そのような推論様式が認められないと,弁論術や議会での審議ばかりでなく,医学もまた,その活動の幅を厳しく縮減されてしまうことにならざるを得ない』という」(ギンズブルグ 2001, pp. 66-67)

 

蓋然性に関する論議が,数学(論理学や幾何学など)などの「ハードサイエンス」ではなく,弁論術や法学あるいは神学のような「ソフトサイエンス」(p. 198)の中で長年にわたって続けられてきたという著者の指摘はたいへん興味深い.著者は蓋然性の厳密な数学的議論ばかりに着目するのは偏向だと言う.

 

続く第6章「ハードサイエンス」と第7章「ソフトサイエンスと歴史学」では,蓋然性が相異なるふたつの文脈の中でどのように理解され議論されてきたかを対比する.まず,第6章「ハードサイエンス」では天文学史を振り返り,観測と理論との関係を蓋然性の観点から考察する.包括的理論によって万物を説明してしまおうとする姿勢を一方の極とすると,天文学がたどってきた歴史はより確率論的なもう一つの極に軸足を置いた.

 

「スペクトルのもう一端では,理論が観測に細かく目を配る.つまり一連の測定結果に公式や曲線をフィットさせることがおこなわれ,確率論的な方法を定式化する余地がある.とくに天文学では,測定結果はランダム誤差を免れない.近代統計学の出発点は,いくつかのデータ点からの彗星の軌道を予測するために,最小二乗法を適用したことだった.近代〔統計学〕の方法は,本質的には,複数の不正確な測定結果を平均することによって,疑わしい測定結果をより正確にすることができる,という古来のアイデアを洗練したものである」(p. 215)

 

この第6章では,アリストテレスプトレマイオスに始まり,オレーム,コペルニクスケプラーガリレオにいたる天文学の歴史の中で,蓋然性がどのように取り扱われてきたかが論じられるとともに,最善の説明への推論・オッカムの剃刀・モデルの相対的比較など重要な論点が登場する.

 

続く第7章「ソフトサイエンスと歴史学」では,厳密な天文学に対して “下位科学” に位置づけられる生物学や歴史学に光を当てる.これらの非演繹的科学のように「結論が演繹的に証明できない場合には,「同じ方向を指し示す」しるしをより多く集めることはやはり価値があるだろう」(p. 262).本章で取り上げられる人相学・薬草学・医学・占星術では,観測データからどのように推論を行うかに関してそれぞれの流儀があった.抽出されたサンプルに基づく母集団に関する推論は12世紀のユダヤ法(タルムード)において詳細に議論された(pp. 276-281).歴史学に目を向けると,確率統計的思考のルーツはかの歴史家トゥキディデスにまで遡れると著者は指摘している(p. 282).そして,10世紀の哲学者アヴィケンナは歴史学を含む “下位科学” における推論が,天文学には見られない,対象物のもつ大きな変異性に影響されると見抜いた(pp. 285-289).

 

「下位科学では,少なくとも,より多くの証拠を集めることによって,仮説を補強したり,逆にその基盤を弱らせたりすることができる.これに対して歴史編纂は,それがめったにできないという独特の難しさを抱えている.なぜできないかというと,過去に起こった特定の問題を論じるための証拠の総体がほとんど変わらないからだ」(p. 289)

 

ソフトサイエンス( “下位科学” )ならびにさらに “下位” に位置する歴史学は,蓋然性の問題とまともに取り組む必然性があった.



第7章後半部では,文書の真贋をめぐる蓋然性の論議に中世人文主義者たちが大挙して登場する.ある文書が本物かそれとも偽物か,あまたの異本群の中から “もっとも真実に近い” 文書を発見するにはどうすればいいのか,という問題は,“下位科学” よりも下の歴史学のさらに下に位置づけられる文書校訂(本文批判)が取り組まねばならない蓋然性の問題だった.この文書校訂に関わった中世人文主義者として,本章ではロレンツォ・ヴァッラ,アンジェロ・ポリツァーノ,そしてヨセフス・スカリゲルが大活躍する.

 

参考文献として引用されている:アンソニー・グラフトン[ヒロ・ヒライ監訳・解題/福西亮輔訳]『テクストの擁護者たち:近代ヨーロッパにおける人文学の誕生』(2015年8月25日刊行,勁草書房bibliotheca hermetica 叢書],東京, viii+470+xli pp., 本体価格7,500円, ISBN:978-4-326-14828-8目次版元ページ)をこの機会にもう一度ひもとくしかない.

 

本書の中心テーマである「蓋然性」に対する “宿敵” があるとしたら,それは事物や言動の「確実性(絶対性)」を要求する立場だろう.著者フランクリンは,第8章「哲学 —— 行為と帰納」の冒頭で,哲学と宗教こそ蓋然性の宿敵だったと指摘する:

 

「哲学と宗教は蓋然性の宿敵である.昔から哲学者たちは,確実性を掲げることによって,単なるレトリック製造人たちとの間に一線を画そうとしてきた.パルメニデスは,真理(これは「存在」と結びついている)と,人間の意見(こちらは「本当らしい」といわれ,「非存在」と結びついている)とを峻別した.パルメニデスプラトンアリストテレス,およびその後継者たちにとって,論理的推論とは,いかなる疑いも容れない知識の基礎を固めるためのものだった.いきおい,本当らしさは彼らが考察すべきものではないとして追放された.」(p. 312)

 

絶対的な真理と可謬的な本当らしさをはっきり区別した上で,真理のみを最重要視する態度は哲学でも宗教でも変わりがなかったと著者は言う.この章では,古代ギリシャ以降の哲学を振り返ることにより,たとえ少数派であっても蓋然性の論議がどのような経緯をたどったのかを考察する.帰納の可謬性や大数の法則などはトマス・アクィナススコトゥスあるいはオッカムの思想の中に見出すことができる.この流れの末端に近代確率論の祖とされるブレーズ・パスカル(pp. 360 ff.)が登場する.

 

続く第9章「宗教 —— 神の法、自然の法」では,蓋然性に対するもうひとつの宿敵である宗教が取り上げられる.本章では中世以降のキリスト教神学をたどりながら,「神の存在証明」と蓋然性との関係がどのように議論されてきたのかを考察する.神が存在することの証明としてよく揚げられる「デザイン論証(intellectual design)」には二通りのバージョンがあると著者は言う.第一の「演繹的なデザイン論証」とは以下のものである:

 

「演繹タイプのデザイン論証で最も有名なのは,トマス・アクィナスの「第五の途」である.これは,自然のなかに目的性や方向性を認めることは必然的に命令者の存在を含意する,というものだ.道路標識には意味がある,ということは,誰かが,それがそういう意味をもつように書いたのだ.と言うのに似ている.この論証は物事の本性への哲学的直観として提供され,私たちの選択肢はそれをとるかとらないかのどちらかしかない」(p. 366)

 

第二の「非演繹的なデザイン論証」は上の演繹的デザイン論証とは大きく異なっている:

 

「デザイン論証が非演繹タイプのときは,つねに代替仮説 —— 世界の秩序は〔神の意図【デザイン】ではなく〕自然的原因から物質の自己組織化のようなものを通して生まれるという説 —— の蓋然性を考える必要がある」(p. 367)

 

本章後半はブレーズ・パスカルによる「神は存在するか否か」という賭けの意思決定論を詳述する.パスカルペイオフ計算(p. 408, 表9.1)に基づいて,神に「祈り」を捧げるという意思決定の方が妥当であると結論した.このパスカルの賭けに関して,フランクリンは合理的意思決定は蓋然性とは別物であると指摘する:

 

「[パスカルによる]この論証で注目に値するのは,パスカルが最晩年になっても,また,これほど意見への信念にかかわる(そして長期頻度とは無関係の)文脈においても,チャンス,つまり偶然のみを問題にし,蓋然性は問題にしていないことである」(p. 409)

 

「蓋然性がどんなに高くても,確実ではない以上,いかにも確実であるかのようにふるまうのはやめておこうと思わせるに足るほどのきけんは存在するだろう.同様に,パスカルの賭けにおいても,神が存在する蓋然性がどれほど低くても,こんなに報われるならば神の存在を前提にした行動は合理的だと思わせるに足るほどの報酬があるのだ」(p. 410)

 

けっきょく,近代的な確率(蓋然性)の考え方が生まれ出る背景には,哲学的あるいは宗教的なアンチ蓋然的な思考がまだ強固に残っていたということだろう.

 

確率論が “賭け事” というきわめて現世的・実業的な営為の中から生まれたとする俗説にしたがえば,第10章「射倖契約 —— 保険、年金、賭博」は内容的にぴったりかもしれない.しかし,いたるところにローマ法の『学説彙纂』への言及があるところをみると,賭け事や保険のようなリスク管理はもっと古いルーツがあることを思い起こさせる.

続く第11章「サイコロ」は,大昔からの “蓋然性” 概念が近代的な “確率” へと衣替えする契機が何であったかに目を向ける.

 

「対称な物体を投げて賭け事をするという,元来周辺的で,いかがわしくさえあるこの裏道には,特別な自慢の種がある.これは蓋然性のうちで真っ先に数学化された部分なのだ.」(p. 460)

 

ここまでの章では,一貫して古代法学や道徳神学での蓋然性あるいは証拠に基づく推論が主たる論点だったのに対して,他方では賭博のような俗世間的な “偶然ゲーム” がなぜ注目を集めることになったかにフランクリンは着目する.著者はその理由はこの偶然ゲームが決着したとき,掛け金をどのように “公平” に分配すればいいのかという法的ならびに道徳的な問題が浮上したからだと推測する(pp. 460-461).

 

ブレーズ・パスカルとピエール・ド・フェルマーが1654年に交わした往復書簡は,ハッキング『確率の出現』の冒頭にも登場するように,近代確率論の開幕を宣言する歴史的なできごととされている.パスカルフェルマーが数学的に議論した「ポイント問題」と「サイコロ問題」(p. 482)の背景には,掛け金の分配に関する “公平性” を担保しようとする使命があったとフランクリンは言う(p. 488).

 

『「蓋然性」の探求』では,単に確率(蓋然性)の数学化された部分にとどまらず,その背後に広がる数学化されなかった部分にも目配りをする視野の広さを特長とする.歴史の薄暗がりに忘れ去られた,必ずしも姿かたちが明瞭ではないものたちに光を当てるという本書の姿勢は全編を通してはっきりわかる.

 

最後の第12章「結論」に進む.蓋然性(確率)がたどってきた歴史の道のりを解明しようとする作業は容易ではなかったと著者は告白する:

 

「アイデアの歴史的発展についても同じことがいえる.潜在意識を浚渫して,埋もれた知識を掘り出すのは長期にわたる苦しい作業である.確率の歴史を,暗黙のうちにはすでにあった概念がしだいに明示化されてきた例として見ると,他の見かたではうまく説明できなかったさまざまな事柄が説明できる」(p. 514)

 

一方,本書が標的とするハッキング『確率の出現』の第1章では,近代的確率の出現の “前夜” についてはほとんど何もわかっていなかったと述べられている.アイザックトドハンターの確率論史本『確率の数学論史 —— パスカルからラプラスまで』に言及しつつ,ハッキングはこう書いている.

 

「[トドハンターの]この題名は非常に的確である.というのも,パスカル以前には記すべき歴史がほとんどないのに対し,ラプラス以降,確率関連の文献は詳しく説明するのがほぼ不可能なほど〔数多く〕刊行され,確率は十分理解されたからである.トドハンターの著作六一八ページのうち,パスカルの先人について論じているのはわずか六ページだけである.〔また〕この著作以降もパスカルの先人についての研究は進展の余地があったにもかかわらず,現在でもわずか数点の初期の覚書や未刊のメモ書きをたまたまみつけることしかできずにいる.しかし,『パスカルの時期』になると,確率という出現してきた考え(emergent idea)をすべての市民が認識したのである.歴史を哲学的に研究するには一六六〇年頃に起こったことを記録するだけでなく,どのようにして確率という基本概念が突然出現しえたのかを思索しなければならない」(ハッキング 2013, 訳書 pp. 1-2)

 

『「蓋然性」の探求』を読了してわかることは,近代的な確率概念はけっして「突然出現」したのではなく,アリストテレス以来の中世スコラ学における弁論術(エンテュメーマ)を踏まえた経験的な非演繹的推論の技法とローマ法を淵源とする法的な証拠の評価と推論に関する何世紀にも及ぶ議論が背景としてあったという点だ.蓋然性(確率)は,それが数学化されるされないにかかわらず,それぞれの時代を生きた人間にとって身近なものだった.

 

蓋然性の認知心理的基盤がまぎれもなく “生物学的” であるという指摘(p. 515)は,数学化以前に,それが文字化・記号化されているかどうか,さらにはそもそも意識されているかどうかさえ超越している可能性を示唆する.いま一度,冒頭の「序」に戻ると,フランクリンは確率的推論を段階化していた(p. 2).

 

  1. 「無意識な推理.つまり,不確実な状況に対して記号未満のレベルで起こる,脳の自動的な反応」
  2. 「日常言語を用いた,さまざまな事柄の蓋然性についての推論.この中間レベルが本書の大きな主題である」
  3. 「確率や統計の教科書に出ているような,数式を用いた数学的な推論」

 

「すべての蓋然性に数値があたえられなければならないか」(p. 519)という著者の問題提起は,本書が念頭に置いている蓋然性(確率)の幅広いスペクトラムを考えれば納得できるだろう.

 

「したがって昔の著作にあたるときに大事なことは,17世紀に新しく始まったこと(つまり,数値化)の予兆を探すことではなく,むしろ,のちに定量化されたものもされなかったものも含めて,確率的事象について何が言われていたかを見出そうとすることである.蓋然性に数値があたえられていなかった時代に見出すことが期待できる,非演繹的論理の断片をいくつかあげてみよう」(p. 520)

 

これに続く節では,著者の主張を支持する実例(論証的推論・三段論法・有意性・帰納・類推など)が挙げられている.

 

では,なぜ数学的な確率概念がパスカル以前にはなかったのか.この問いに対して,フランクリンは「17世紀がそれまでの時代と明らかに違う点は,基礎数学の文化全体が成長したことである」(p. 526)と指摘した上で:

 

「確率論がなぜもっと早く現れなかったのか,という問いに一言で答えるなら,“数学が難しいから” がその答えである.応用数学はそれに輪をかけて難しい」(p. 529)

 

と結論する.これは,数学的リテラシーの浸透とも関連するのだろうが,著者のもうひとつの答えはより根本的かもしれない.

 

「数学的蓋然性の発達を遅らせたと考えられる最後のそれらしい要因は,偶然の科学は存在しえないという信念である.なぜなら偶然とはまさに科学の手を逃れるものの名なのだから.これは自然な信念であり,アリストテレスの権威に支えられていた.[中略]一回生の偶然事象に注目することで,アリストテレスは偶然を,説明や理論を受けつけないものとして見る.」(p. 531)

 

一回限りの偶然的なできごとが合理的な説明の対象ではないというこの信念は,中世的な「運命の輪」の寓意によって裏打ちされていると示唆される.

 

「確率の理論の出現が遅れた理由のひとつは,運命の車輪に象徴される不可避の運命という考え方が,偶然にかんして今日の概念と張り合うような概念を提供していたからだ,と論じることはできるだろう.しかしこの見解を支持する決定的な証拠を見つけるのは難しい.確率的な議論は結して運命の議論とともには生じないが,そのことがこの見解を支持する証拠といえるかどうかは難しい問題である.『偶然の科学は存在しない』という考えと,運命の車輪という考え方はともに,偶然と非理性のもっと深いところでのつながりを示唆しているのかもしれない.」(p. 534)

 

現代のわれわれにとってなじみ深い “数学的” な確率論と統計学のすぐ裏側に,もっと広くそして “非数学的” な蓋然性の世界が広がっているという著者の結論は,エピローグにつながっていく.

 

最後の「エピローグ 非定量的蓋然性のサバイバル」では,パスカル以降の “数学化” の傾向 —— 「数学的方法によってしだいに植民地化されてきた物語」(p. 572) —— を免れた “非数学的” な蓋然性の残響 —— 「多くの非定量的な蓋然性がしぶとく生き残っているようす」(p. 572) —— に耳を澄ませる.ポール・ロワイヤルやラプラスの論理学あるいは法学や道徳神学のその後の顛末にフランクリンは注意を向ける.そして,現在の科学哲学にも時としてみられる懐疑論(社会構築主義)に対抗するには,証拠に基づく非演繹的推論の史的基盤を再認識することだとしめくくられる.

 

続く「2015年版への後記」と銘打たれたポストスクリプトでは,非定量的な蓋然性(確率)をベイズ統計学の観点から捉える立場が述べられている.著者は「論理的蓋然性主義」を「客観的ベイズ主義」とみなしているようだ(p. 591).証拠と仮説に関する論理的確率を指しているものと思われる.

 

本書はハッキングの『確率の出現』ではあまり触れられていなかった,パスカル以前の確率(蓋然性)概念がたどってきた長い歴史をぎゅっと詰め込んだ大著である.本文も膨大だが,巻末の原註はさらに膨大な文字数がみっしり押し込まれている.通読するだけでも時間がかかる本だがその見返りはとても豊かである.巻末に付けられた折り込み図版の「関連年表/人物–テーマ相関表」は,紀元前23世紀から始まりパスカルが登場する17世紀までの分野別の歴史がひとまとめに鳥瞰でき,蓋然性の歴史の広さと深さが実感できる格好のチャートだ.

 

さて,最後に残された大きな問題は,この『「蓋然性」の探求』という大著をどのように読めばいいのかだ.もちろん,確率と推論に関わる内容であることはまちがいないが,少なくとも第9章までの約400ページは古代から中世にいたる思想史の本だ.ギリシャ思想・ローマ法・道徳神学・スコラ哲学を知っている読者であれば,苦しまずに読み進められるだろう.しかし,確率論や統計学の歴史を期待した読者の多くは途中で無念にも息絶えてしまうのではないかという危惧もある.つまり,最初の数段がはずされた長い梯子が果敢な読者の頭上に架けられているということだ.

 

幸いにして,『「蓋然性」の探求』はハッキングの『確率の出現』を念頭に置いて書かれている.そこで,まずはじめに準備運動として『確率の出現』に登攀し,そのあとで『「蓋然性」の探求』の “アイガー北壁” に取り付くというコースが “読者死亡率” を下げる一つの方法だろう.滑落せずに首尾よく『「蓋然性」の探求』から生還できたならば,『確率の出現』の末尾に付されている「二〇〇六年版序論 確率的推論の考古学」(pp. 313-349)に戻るとよい.この二冊の本は,確かに見解の対立はあるのだが,たがいに照らし合っているので,両方とも読むのがシアワセな人生への近道かもしれない.

 

いずれにせよ,道中くれぐれもお気をつけて.

 

三中信宏(2018年8月10日)

 

[参考]週刊読書人ウェブ:市原加奈子確率の「前史」が塗り変わる。」(2018年5月31日)※『「蓋然性」の探求』の担当編集者による紹介記事.