『アリストテレス:生物学の創造[上・下]』読売新聞書評と読書メモ

アルマン・マリー・ルロワ[森夏樹訳]
アリストテレス 生物学の創造[上]』(2019年9月17日刊行,みすず書房,東京, viii, pp. 1-291, 63, 本体価格3,800円, ISBN:978-4-622-08834-9目次版元ページ
アリストテレス 生物学の創造[下]』(2019年9月17日刊行,みすず書房,東京, iv, pp. 293-586, 35, 本体価格3,800円, ISBN:978-4-622-08835-6目次版元ページ

読売新聞大評が掲載された:三中信宏よみがえる哲人の業績 —— アリストテレス 生物学の創造 上・下…アルマン・マリー・ルロワ著」(2020年1月19日掲載|2020年1月27日公開)



よみがえる哲人の業績

 生物学の歴史をさかのぼれば、アリストテレスにたどりつく。しかし、「アリストテレス以来2000年の歴史をもつ生物学」と口にするとき、それは「中国4000年の伝統の味」と同じく単なる枕詞でしかない。現代のわれわれは、2400年も前のギリシャ時代に生きたこの哲人とその科学上の業績を手の届かない“神棚”に祭り上げておけばそれでよいのだろうか。

 上下巻合わせて600頁にもなる大著だが、読み終えて即座に「おみそれしました」とひれ伏してしまった。アリストテレスの哲学的著作である『分析論前書』『分析論後書』『カテゴリー論』などはその厳密さと難解さをもって知られる。一方、『動物誌』『動物発生論』『動物部分論』など自然誌の著作群には、具体的な動植物に関する膨大な知見が盛り込まれていて、ずいぶん趣が異なる。1世紀前の生物学者ダーシー・ウェントワース・トンプソンは『動物誌』をギリシャ語から翻訳して飽くことなく詳細な注釈を付けた。

 本書は、アリストテレスがどのようなデータと論理の上に生物学を築いたのかを、フィールドワークの現場となったエーゲ海レスボス島にある潟湖を視野に置きながら考察する。彼が提唱する生物体をつくりあげる究極要因としての「形相」は長らく概念的誤謬であるとみなされてきた。しかし、現代の発生生物学の観点から見れば因果過程としての個体発生における「情報発現」はまさに形相因に通じるものがあると著者は言う。また、自然の存在物に関してアリストテレスが抱いた連鎖と充満と推移のイメージは、後世の生物多様性の理解に深遠な影響を及ぼした。

 評者の研究室には旧版のアリストテレス全集が書棚の上に何年もひもとかれないまま静かに鎮座している。本書を読了したいま、ふたたびアリストテレスに手を伸ばそう。2000年あまりの年月を隔てた響き合いは途切れることがない。“彼”は細部に宿る。森夏樹訳。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2020年1月19日掲載|2020年1月27日公開)



本書はアリストテレスの生物学的業績に関する本であると同時に,生物学側からのアリストテレス研究史の本でもある.

ワタクシが本書を手にして驚倒したのは,後年『成長と力』(1917)を書いたダーシー・ウェントワース・トンプソンのギリシア古典学の素養の深さだった.ダーシー・トンプソンの前半生はアリストテレス研究に捧げられている.『動物誌』のギリシア語から翻訳と徹底的な注解をルロワは随所で引用している.というか,原書タイトル『The Lagoon: How Aristotle Invented Science』の「ラグーン(潟湖)」とはトンプソンの文に依拠している.ギリシャ古典の鳥類名と魚類名に関する同定辞典を出したダーシー・トンプソンにとっては,還暦近くになって出した『成長と力』はほんの手慰みだったのではないかと思えるほどだ.ギリシャ古典の教師だった父親の膝の上で物心つく頃からギリシャ語に馴染んできたトンプソン,げにおそるべし.

もちろん,2400年も経ってなお降臨するアリストテレスも驚異的なら,それら全部をひっくるめてこの大著をものしたルロワも輪をかけてヤバすぎる.さらに訳書のカバージャケットはみすず書房らしからぬ和風ヴィジュアルなので手に取る価値あり.