『酒場の京都学』読売新聞書評

加藤政洋
(2020年1月30日刊行,ミネルヴァ書房,京都, xiv+232+ii pp., 本体価格2,500円, ISBN:978-4-623-08802-7版元ページ

読売新聞の大評が公開された:三中信宏薄暗がりの現実と幻影 —— 酒場の京都学 加藤政洋著 ミネルヴァ書房」(2020年3月29日掲載|2020年4月8日公開)



薄暗がりの現実と幻影

 評者が大学の学部生だったころ、父親に初めて連れられて夜の京都市内に飲みに行ったことがある。河原町通の繁華街から一筋中に入れば、仄暗く人気のない裏寺町通が南北に延びている。通りに面した暖簾をくぐると、店内には年季の入ったコの字形のカウンター席が客を待っていた。店主と挨拶を交わす父はどうやらこの店の常連だったようだ。それから長い年月が過ぎ、すでに父も亡くなったいま、あの店はいったいどこだったのか、のちに裏寺町をたどる機会があっても皆目見当がつかない。門口に“手軽一杯”とか“深酒御免”という木札が下がっていたのかどうかもさだかではない。京都の街の薄暗がりは現実と幻影がもつれ合う。

 本書は明治以降の京都で酒場がどのような経緯で成立したかを解き明かすべく、綿密な現地調査はもちろん、かつて京都に暮らした多くの作家・思想家・大学教員・実業家たちが書き残した文章や旅行ガイドブック、さらにはデジタル化された京都市内の古地図データをも駆使する。もともと学生が多かった京都では、祇園などの高級なお茶屋や割烹料亭とは別次元の飲食空間(酒場・ミルクホール・カフエー・洋食屋)が庶民向けの歓楽街としてあちこちに成立した。木屋町先斗町などの有名な場所もあれば、知る人ぞ知る裏寺町の毛細血管のような細道に連なる酒場にいたるまで、するどい観察と深い推察を重ねる本書は生粋の呑んべでなければ書けない本だ。谷崎潤一郎吉井勇九鬼周造古川ロッパ竹久夢二など京都にちなむ著名人に文中の辻々ですれちがうのも魅力のひとつ。

 こういう罪な本を読んでしまうと、またしても洛中の路地の奥からお呼びがかかるではないか。裏寺町の柳小路は最近はおしゃれな日本酒バーもできるほど雰囲気が変わったが、ひさしぶりに落書きだらけの<静>に行ってみようか。それとも四条木屋町、三条新町、はたまた綾小路高倉あたりの夕闇をぶらぶらしようか。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2020年3月29日掲載|2020年4月8日公開)



この書評の “スピンオフ” 記事は4月18日(土)の日本経済新聞コラム〈交遊抄〉に載る予定.