『イタリア料理大全:厨房の学とよい食の術』読売新聞書評

ペッレグリーノ・アルトゥージ[工藤裕子監訳|中山エツコ・柱本元彦・中村浩子訳]
(2020年7月15日刊行,平凡社,東京, 717 pp., 本体価格8,800円, ISBN:978-4-582-63222-4版元ページ

読売新聞大評が公開された:三中信宏19世紀末のレシピ集成 —— イタリア料理大全 厨房の学とよい食の術 ペッレグリーノ・アルトゥージ著」(2020年11月1日掲載|2020年11月9日公開)



19世紀末のレシピ集成

 日常的な厨房での作業は目の前の食材との語り合いと無駄のないスケジューリングの勝負だ。出汁取りから始まり、食材の下準備をすませ、煮る・炊く・焼く・蒸すという調理に取りかかるときには食卓に料理を並べる配置が決まっていることだろう。経験に裏打ちされた“厨房の科学”が各料理の「定番レシピ」として時代を越えて伝えられる。

 原書の初版は19世紀末に出版された。伝統的イタリア家庭料理を集成した本書全700ページには計790ものレシピがぎっしり詰め込まれていて、評者は読了するのにまる2か月もかかった。前菜から始まり、卵料理・詰物・揚物・茹物・煮込み・冷製・魚料理・焼物と続き、最後はデザートと文字通りフルコースで押し寄せてくる。最初から辛抱強くたどれば『大全』の書名にふさわしい体系的な知識と教訓とエピソードを日本語で読めるのは朗報だ。

 イタリア料理の基礎となる出汁(ブロード)と煮汁(スーゴ)は日本料理で言えば昆布や鰹の出汁に相当するだろう。汎用的な食材として使われる豚肉のハム(プロシュット)や塩漬けばら肉(カルネセッカ)・塩漬け背脂(ラルドーネ)、それらを香味野菜と合わせた「バットゥート」や「ソッフリット」も大活躍する。野鳥や野獣を使ったジビエ料理の豊富さには食欲がそそられる。イタリア料理の独壇場だ。

 食文化がちがうと基本用語で立ち往生することがある。料理のカテゴリー分けそのものにも戸惑う。たとえば「ミネストラ」なる大きな料理カテゴリーがある。いわゆる「ミネストローネ」を含むこのカテゴリーは「スープ、パスタ、米料理の総称」と定義されるのだが、なぜひとくくりにするのか評者にはすぐにはわからない。ピッツァがなぜ“菓子”だったのかというもうひとつの深遠な疑問も湧く。イタリア料理はさまざまな謎を秘めつつ大きく進化してきたことを知る。工藤裕子監訳。中山エツコ、柱本元彦、中村浩子訳。

 ◇Pellegrino Artusi=1820~1911年。文筆家。1891年に本書を自費出版後、20年間改訂を続けた。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2020年11月1日掲載|2020年11月9日公開)



2ヶ月かかってやっと登攀完了した重量級.ぎっしり詰め込まれた伝統的イタリア家庭料理のレシピ集はブリア・サヴァラン『美味礼讃』,袁枚『随園食単』と並ぶ料理本の古典と位置づけられている.アルトゥージ存命時は,イタリアの国家と言語そのものが統一されていなかったようで,料理名とか食材名が地方地方で別々だったと「監訳者あとがき」に書かれている.イタリア家庭料理の “統一” を目論んだのが『イタリア料理大全』である,と.

本書には全700ページに790ものレシピが詰め込まれている.しかも文章のみなので,最近のレシピブックやレシピサイトのようなカラフルな写真や動画(初版が120年前だから当たり前)は皆無だ.読者はひたすら書かれているレシピの手順を追い,できあがるはずの料理を想像するのみ.「540 去勢鶏のローストのトリュフ風味」には「料理は想像力の産物だとフィレンツェの人は言う.その通りだろう」(p. 439)と記されている.

前菜から始まり,卵料理・詰物・揚物・茹物・煮込み・冷製・魚料理・焼物,そして最後にデザートとフルコースで押し寄せてくる伝統的イタリア料理の数々.日本では手に入らないにちがいない肉・野菜・香辛料は多々あるのだが,もっとも基礎となる「だし( “ブロード” )」と「煮汁( “スーゴ” )」,そして汎用的な食材としての「ハム( “プロシュット” )」,それをベースにした “バットゥート” と “ソフリット” が大活躍する.イタリア料理の基本用語から勉強しなおしだ.そもそも食文化がちがうと基本用語で立ち往生する.全790レシピのしょっぱなは「001:ブロード(Brodo)」.イタリア在住歴が長い知り合いに「ブロードって何やねん?」と訊いたら「出汁やんか」と即リプライが.日本料理でいうかつおだしとか昆布だしのことかとナットク.ほかにも,豚背脂の塩漬け( “ラルドーネ” )とか豚バラ肉の塩漬け( “カルネセッカ” ) も頻繁に登場するが,これは “塩豚” に相当するものだろう.

いずれにしても,基本の基本が日本料理とはぜんぜんちがう体系なので,料理のカテゴリー分けそのものにも戸惑うことしばし.たとえば,「ミネストラ」なる大きな料理カテゴリーがある.いわゆる「ミネストローネ」は「ミネストラ」の “真部分集合” なのだが,ミネストラはもっと広大で「スープ,パスタ,米料理の総称」(p. 689, 訳注 30)と説明されている.なかには「天国のミネストラ」だの「ボローニャ風トルテッリーニ」だの「女王風ズッパ」だの聞いたこともない料理がわらわらと登場.でも,スープとパスタと米料理って日本人的には “別種” ではないかとぼやくワタクシ.

『イタリア料理大全』での「ピッツァ」の地位はとりわけ論議を呼ぶ.この本でピッツァがただ一度出てくるのは最後の「菓子」の節だ.そこに載っている「409 ナポリ風ピッツァ(Pizza alla napoletana)」(pp. 499-500)はクリームとリコッタチーズでつくる完全な “スイーツ” にほかならない.訳注152(p. 696)にはこう書かれている:

「ピッツァという言葉は中部・南部イタリアであらゆる種類のトルタ,フォカッチャを指していた.19世紀初頭の『家庭料理』には9種類の甘いピッツァのレシピが紹介されているが,19世紀後半にはイタリア中部やトスカーナ地方で甘くない(チーズ,トマト,アンチョビなどをのせた)ものがつくられていた.20世紀初頭,Pizza alla napoletana は,モッツァレラ,トマト,魚介をのせたものとして記録がある.本書がこの料理名で甘いヴァリエーションのみを扱い,甘くないピッツァを載せていないことについては,多くの読者から指摘がなされていた」.

レシピに従えば,「美味な菓子にしあがると思う」(p. 500)とのこと.このナポリ風ピッツァに続くレシピ「610 ピッツァ・グラヴィダ」(pp. 500-501)も食材からしてとても甘そうなスイーツだ.おそらく,アルトゥージ以後の一世紀で「ピッツァ」はイタリア料理として大きく “文化進化” したのだろう.

そんなわけで,この『イタリア料理大全』はイタリア家庭料理の “根元” を知る上でとても役に立つ本であることはまちがいない.同時に,これらのレシピを日本の厨房で “再現” するとなるとハードルは低くないかもしれない.しかし,読売新聞読書委員会では「『イタリア料理大全』の大評を出すときにはどれかを実際につくっていただいて写真を載せるというのも一興」と言われているので,アルトゥージ本を踏まえた厨房修行がワタクシに課せられている.「556 フィレンツェビステッカ」だったらいけるかな.どうかな.

チャールズ・ダーウィン夫人のエマのレシピブックを踏まえて当時のダーウィン家で出された料理を再現した写真集が出版されている:Dusha Bateson and Weslie Janeway『Mrs. Charles Darwin's Recipe Book: Revived and Illustrated』(2008年刊行,Glitterati, New York, 175+xvii pp., ISBN:978-0-9801557-3-0 [hbk] → 版元ページ特設ページ書評記事).このアルトゥージ本にも同じような “イラスト入り再現本” はないのだろうか.