『読む・打つ・書く』書評拾い(4)

三中信宏
(2021年6月15日刊行,東京大学出版会東京大学出版会創立70周年記念出版],東京,xiv+349 pp., 本体価格2,800円(税込価格3,080円), ISBN:978-4-13-063376-5コンパニオン・サイト版元ページ



「註」と「索引」についての記事.先日のゲンロンカフェでも「註」の読み方は俎上に載せた.

 

『読む・打つ・書く』に書いたように,ワタクシ自身は本文中の「註」はいっさい付けない主義で本を書いてきた.註として書く内容があれば本文中に組み込めばすむことであって,わざわざ “読書の動線” を断ち切ってまで,章末・巻末に追い込むのは読者の負担を増やす結果にしかならない.もちろんすべての本を「註なし」にしろというのは暴論だろうし,#ゲンロン210702 の質問にあったように,和歌や漢詩だと本文とは別に「註」を付けるしかない.「註をなくせ」ではなく,むしろ「註付きの本はどのように “読めば” いいのか?」という読書スタイルの問題に帰着する.

 

とくに専門書では,巻末に註がまとめられていることは多い.ほとんどの読者は本文を最初から読み始めるだろう.途中で註への参照が示されたならば,読者はすかさず意思決定しなければならない.すなわち「このまま本文を読み進めるべきか」それとも「註のページに飛ぶべきか」.「註を無視して本文を読み進める」あるいは「動線を切って註を読みに行く」のいずれの道を選んでも一長一短の中途半端さが残念だ.それもこれも註があるからだろう.しかし,ここで文句を言ってもしかたがないので,それぞれの道を選んだ場合の読書スタイルの改善を考えてみる.

 

第一の「註を無視して本文を読み進める」を選んだとする.ワタクシ的には註があるたびに “後ろ髪を引かれる” ようでは本文に集中できない.しかたがないから,最初に註を全部読んで覚えてしまってから,本文を読み始めるといういささか倒錯的な読書をするしかない.第二の「動線を切って註を読みに行く」を選んだとすると,最初に指摘したように,読書の “動線” はぶつ切りになってしまい,とても “痛い読書” になってしまう.電子本で註がそのつどポップアップ表示されるというような小洒落た機能がついていればその “痛み” は軽減されるだろうが.

 

註が別の場所にまとめられている本でよくある事態は「本文→註」の参照はできても,「註→本文」の逆参照ができないことだ.それぞれの註に本文該当ページが明示されていればそういう血圧が上がることにはならないだろう.ワタクシは註のそれぞれに手書きで本文ページを書き込んでいる.根源的な疑問としてそもそも註は「読者に読まれるためにあるのだろうか.本は著者のために書かれるとワタクシは考えている.学術書の場合,本文の典拠を明示・解説するために註を付ける.それだと,註は第一義的に「著者のためにある」わけで,必ずしも「読者のためにある」のではない.

 

元記事「読書の動線」には「「読書の動線」がうまくつくれているときは,どのように索引項目を拾うべきかが自ずと索引ページの画として見えてくるものだ」と書かれている.読書の動線のよしあしは索引づくりに直結するという重要な指摘だとワタクシは考える.