『Of Moths and Men: The Untold Story of Science and the Pepper Moth』

Judith Hooper

(2002年8月15日刊行,W. W. Norton, New York, xx+377 pp., ISBN:0393051218目次

某誌編集部より,オオシモフリエダシャクの工業暗化に関する質問を受けた.質問メールを事情通の知人に転送して意見を乞う.白色型と暗化型が幹に並んでとまっている有名な写真が「捏造」であるという風評はなお消えていない.しかし,結論としては,あの写真はもともと H. B. D. Kettlewell が両タイプのガのちがいを野外条件で示そうとしただけであって,ヤラセでも捏造でもない.ましてや,工業暗化の現象そのものに対して疑義を投げるというのは意図があっての曲解にすぎない —— とのコメントをもらった編集部に送った.

H. B. D. Kettlewell をめぐる人間模様を描いた本書の書評を数年前に出したが,ここに転載しておくことにする.

【書評】※Copyright 2003 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



「進化の証左」として誰もが知っている,オオシモフリエダシャクの「工業暗化」をめぐる研究史と研究者の人間関係を描いた本です.もちろん H.B.D. Kettlewell が主人公なのですが,当時のイギリスの進化学界の人間関係――とりわけ Kettlewell が惹かれた生態遺伝学の旗頭 E.B. Ford と彼らを取り巻く研究者たちとの確執がもうひとつの軸になっているようです.Kettlewell が骨の髄まで「蛾屋」だったことを再認識させてくれる本.関係者たちの書簡・内部資料・インタビューを踏まえた伝記です.


著者は,工業暗化の研究史を「人間模様」として捉えようとしている感がある.PART 1 では,そもそもオオシモフリエダシャクの「工業暗化」という現象がどのように見出されていったのかをたどり,それが進化学とどのような経緯によって関わるようになったのかを明らかにする.


最初に「暗化型」が発見されたのは1848年のこと.ダーウィンはそれに気づいた風はなく,1898年になってはじめて暗化型が自然淘汰によって説明できるという主張が現われた(J.W. Tutt).しかし,1920年代になって J.W. Heslop Harrison が金属汚染による工業暗化の説明をするにいたって,暗化の進化をめぐる論争が激化していった.


工業暗化の自然淘汰による説明に固執したのが,生態遺伝学の祖である E.B. Ford だった.1930年代以降,オクスフォード大学に生態遺伝学派を築いた Ford は,そのエキセントリックな性格,ホモセクシュアル,反論や反対者を徹底的に叩くスタイルが周囲に波紋を拡げていく.当時の Ford が必要としていたのは,工業暗化が確かに自然淘汰によって生じていることを示す実験的「証拠」だった.


PART 2 では,その「証拠」を与えた医師にしてアマチュア蛾屋の H.B.D. Kettlewell が登場する.1950年代にバーミンガムを中心にオオシモフリエダシャクの明色型/暗色型の分布を調べていた Kettlewell は,Ford の知己を得て,鳥による捕食を標識再捕獲法によって調査するが,なかなかいい結果が出ない.しかし,鳥が実際に蛾を捕食している現場を Niko Tinbergen が録画することで,この点をクリアした.


Ford の勧めで,南アフリカでの医師としての生活を切り上げて,オックスフォードで研究活動をすることになった Kettlewell は,しだいに追い詰められていく.確かに Kettlewell の行なった実験は,自然淘汰を「実証」した研究としてマスコミ,社会,(オクスフォード以外の)学界で広く賞賛され,Kettlewell は一躍「時の人」となった.しかし,著者の書きぶりによると,しょせんは一介の蛾屋がまちがってオックスフォードの象牙の塔に迷いこんでしまっただけ.工業暗化という「金の卵」は賞賛されても,それを産んだ Kettlewell 自身はオクスフォードでは最後まで尊敬されなかったと著者は言う(p.211).


生態遺伝学そのものも1960年代後半から70年代にかけて終焉のときを迎えようとしていたが,帝王 Ford はそのことに気がつかない.


Kettlewell は Ford との愛憎関係(p.210)のこじれと,王立協会のフェローに推薦されなかったことでしだいに精神を病むようになる(アルツハイマー病が進行していたらしい:p.224).1973年の大著“The Evolution of Melanism”も冷淡な扱いを受け,結局 1979年に服毒自殺.


PART 3 は,「その後」の工業暗化研究史で現在にもなお論議の的となり続けている部分である.Ted Sargent の研究に焦点を当て,工業暗化が進化現象としてどの程度信頼が置ける「証拠」なのかを問直すという論調になっている.


Ford と Kettlewell をめぐる「人間模様」として読むとき,本書はたいへん胸に迫るものがある.未公開の書簡やインタビューを通してのストーリーづくりが成功している部分だとぼくは思う.


三中信宏(31 July 2003)

そういえばEVOLVEメーリングリストでも,前世紀末にこの工業暗化「疑惑」についてやりとりしたことがある(久しぶりに過去ログを読んでみた).