『進化の運命:孤独な宇宙の必然としての人間』

サイモン・コンウェイ=モリス[遠藤一佳・更科功訳]

(2010年7月21日刊行,講談社,東京,本体価格2,800円,724 pp., ISBN:9784062131179目次版元ページ情報

「編集協力者」が書評というのもおかしな話だが,音羽から「販促よろしく」とのことで,講談社広報誌『本』2010年9月号に下記の文章を寄せた.発行後はウェブ掲載OKとの許可をもらったので,下記に転載しますねー.本も買ってねー.

※Copyright 2010 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

生物進化における「収斂」の勝利:サイモン・コンウェイ=モリス『進化の運命』の刊行に寄せて

三中信宏農業環境技術研究所



著名な古生物学者ジョージ・ゲイロード・シンプソンは,1930年秋,ニューヨークのマンハッタンにあるアメリカ自然史博物館が実施した南米調査探検隊に同行し,はるばる南アメリカの南端パタゴニアに向かった.哺乳類の化石を発掘することがこのプロジェクトで彼に課せられた任務だった.シンプソンは,パタゴニア内陸の町リオ・チコからフランス在住の四つ年上の姉マルタに宛てた長い手紙(1931年3月5日付)の中で,将来を嘱望されている科学者としての経歴に照らして,科学と宗教との関わり合いについて内心を吐露している.



シンプソンは,たとえ科学が宇宙を統べる大統一法則を発見できたとしても,なぜそのような法則があるのかという疑問には最後まで答えられないだろう断言する.科学がこたえることができないその「はてな」を説明する究極者に対して,彼は「どんな呼び方でもかまわないだろう.その名前は「X」でも,また「エホバ」でも,あるいは「神」と呼んでもいい」と言う.しかし,そのような宗教的信念の限界を突くように,彼は「「神」という言葉を口にしても説明にもならなければ気休めにもならない.神が宇宙を創造したという主張に中身は何もない.ここでいう「神」とは教会の中で崇拝の対象となる存在では断じてないからだ」と言い添える.



科学者が「神」という言葉を口にするとき,私たちはその背後に広がる精神世界がいかなるものかについて思いをめぐらせることができるだろうか.科学と宗教との長い闘いは,そのような文化的土壌がそもそもない日本にいるかぎり,頭の中であれこれ想像してみるしかない.それでも,かつてのチャールズ・ダーウィンをはじめとして,現代のスティーヴン・ジェイ・グールドやリチャード・ドーキンスら第一級の論客にいたるまで,西欧の多くの進化学者たちが,自らの社会の中に深く根を下ろした宗教(キリスト教)との軋轢を皮膚感覚として感知し,陰に陽に対決せざるを得なかった経緯を軽く見てはならないだろう.



今回やっと翻訳刊行されたサイモン・コンウェイ=モリス『進化の運命』は,一言でいえば,自然界に見られる生命現象には,ミクロな化学反応からマクロな生物形態にいたるまでさまざまなスケールで,「収斂(コンヴァージェンス)」なる現象が普遍的に存在することを調べ上げた労作である.本書を読み進む際の最重要キーワードである「収斂」とは,系統的にかけ離れた生物群が同じような構造や特性を進化させる現象を指す.著者は,一見したところ多様に見える生物界では,同じ問題を進化的に解決するためには想像以上に数少ない解決策しか残されていないという点に注目する.その結果として,収斂がいたるところで見られると言う.



たとえば,われわれがもっている目は「カメラ眼」と呼ばれ,レンズによって外界の像をとらえて視覚刺激に変換し脳に伝える.このようなカメラ眼はヒトを含む脊椎動物に広く見られるが,それだけではなく系統的に遠縁なイカ・タコ(頭足類)やウキゴカイ(環形動物)にも同様のカメラ眼をもつ生物がいる.カメラ眼は形態的にきわめて複雑な構造をもっているにもかかわらず,カメラ眼は系統樹上の異なる枝において数回にわたって収斂的に進化したと推測されている.



同様の収斂進化のもうひとつの例として,カマキリとカマキリモドキの前肢にある「かま」が挙げられる.両者の「かま」は,餌をとらえるために進化した構造で,形状的にも機能的にも両者の「かま」は酷似している.しかし,同じ昆虫類で和名もよく似ているにもかかわらず,カマキリは蟷螂(カマキリ)目,カマキリモドキはヘビトンボやウスバカゲロウと同じ脈翅目というまったく別の分類群に属している.



文字通り「収斂進化百科」である本書には,このような実例がこれでもかというほど詰め込まれていて,巻末には専用の「収斂索引」まで備わっている.では,一風変わったテーマを主題とする本書は,いったいどのような意図で書かれたのだろうか.著者は,収斂という現象がかくも広く見られるという事実の蓄積を通して,生物進化の道筋はでたらめに生じてきたのではなく,むしろ数少ない選択肢を結果的に選びつつ現在の生物はつくりあげられてきたのだと読者に語りかける.



かつてグールドは『ワンダフル・ライフ:バージェス頁岩と生物進化の物語』(1993,早川書房)で生物進化の偶然性を重視するシナリオを提示した.また,ドーキンスは『ブラインド・ウォッチメイカー : 自然淘汰は偶然か?』(1993,早川書房)において,偶然的な自然淘汰プロセスがいかにして複雑精妙な生物形態が形づくられたかを描き出した.これに対して,著者は,グールドやドーキンスが唱えてきた「確率的偶然」の積み重ねではなく,むしろさまざまな制約条件のもとでの「運命的必然」に導かれて生物進化は生じてきたという基本スタンスをとる.



地球上の生物の進化がかぎられた選択肢をたどった結果の必然であったとするならば,私たちヒトの出現もまた運命に導かれた必然ということになる.ヒトという知性をもった存在は必然であるにもかかわらず,全宇宙の中でその出現を可能にしたさまざまな制約条件の組み合わせは奇跡的な偶然であったという皮肉な結論を著者は展開する.著者の世界観のもとでは,まったく別の意味で偶然は必然を生み出したことになるのだろうか.



人間存在に関する著者のこの見解は,ストレートにひとつの“宗教的信念”をもたらすことになる.それは,生物進化における「運命」と「進歩」への積極的な評価である.著者は知性をもった人間は運命づけられた生物進化が生み出した進歩の産物であるという主張を明示的に述べている.さらに,本書の原書出版(2003年)の直後に著者が呼びかけたシンポジウム論文集:『生物学の深層構造:普遍的な収斂は方向的指針を与えるのか?(The Deep Structure of Biology: Is Convergence Sufficiently Ubiquitous to Give a Directional Signal?)』(2008,Templeton Foundation Press)では,収斂のもつ生物学的・哲学的・神学的な論議をさらに深めようとする意図がはっきりと見えている.このシンポジウムは,キリスト教原理主義インテリジェント・デザイン運動と絡んで名前がよく挙がるテンプルトン財団のバックアップで実現したという.



シンプソンは,冒頭で言及した手紙の中で,「宗教は,人々が誠心誠意をもって信仰の対象とするかぎり,私はそれに敬意を払おう.しかし,暴力的にして強圧的な宗教がもたらす不誠実な姿勢に対しては断固として闘う」という決意を述べた.彼は,科学者として宗教的信念との間合いの取り方を探りつつも,科学の道を透徹させることにより,最後には宗教者ではなく科学者の方が神の御わざをもっとよく知ることができるだろうと締めくくる.なぜなら,宗教者は単に神について書かれた書籍や言説について論じているだけであるのに対し,科学者は神が手を下したその事蹟を直接の研究対象としているからである,と.コンウェイ=モリスが進もうとする道の先にはいったいどのような宗教的結末が待っているのだろうか? 私たちはそれをも丸呑みした上で,本書をひもとかねばならないのだろうか?



かれこれ五年前,本書の翻訳草稿の紙束とともに,草津温泉にある講談社の保養所に籠った記憶がまざまざとよみがえってくる.単なる憶測ではなく事実をもって生物進化のストーリーを物語らせるという著者の姿勢は,うずたかく積み上げられた具体例の山となって立ちはだかった.この問題作がようやく出版までこぎつけることができたのは幸いだった.本文500ページに脚注200ページという膨大な翻訳を成し遂げた訳者には何をおいても労をねぎらうしかない.たいへんお疲れさまでした.



 〔掲載誌:講談社『本』2010年9月号,pp. 10-12〕