『庭とエスキース』書評

奥山淳志
(2019年4月16日刊行,みすず書房,東京, 40 color plates + 286 pp., 本体価格3,200円, ISBN:9784622087953版元ページ

ある写真家が北海道は新十津川村の小屋で独り自給自足生活をする老人 “弁造さん” を撮り続けた前世紀末からの14年間の長い物語.目次があるわけでもなく,つむがれた時間をあちこち行ったり来たりしながら,写真家と “被写体” とのやりとりが記されていく.なぜ “弁造さん” は雪深い北海道の村で半世紀以上にもわたって一人暮らしをしてきたのか,ときどきキャンバスに向かって絵筆を手にする動機は何か,そして筆者とのつながりがなぜこれほど長く続いたのかなどなど,読者がいだく疑問の数々は読み進むうちに見えてくる.

恥ずかしながら,ワタクシはタイトルにある「エスキース」という美術用語をぜんぜん知らなかった.本書に所収されているカラー写真には多くの “スケッチ” あるいは “デッサン” が撮られていることに気づく.しかし,いわゆる “スケッチ” や “デッサン” と本書の「エスキース」とは似ているようで意味内容が微妙にずれている用語らしい.ここでいう「エスキース」とは完成された美術作品への途中段階の “習作” あるいは “下絵” という意味で用いられているようだ.

「写文集」と銘打たれている通り,40葉のカラー写真と文章とのリンクが何重にも歴史を語る.一枚一枚の写真から受けるさまざまな印象や想念は本文を読み進むにつれて確証されたりあるいは反証されたりする.カバージャケットにくるまれた仮フランス装の表紙に描かれたエスキースの意味は最後まで読み通して初めてわかる.

著者は写真のもつ機能についてこう書いている:

「「メディア」の単数形を指す「メディウム」とは,ものとものをつなぐ媒介物という意味だと知って「写真」そのものを「時のメディウム」と呼ぶべきだと感じたのはいつのことだろう.僕が見ている写真は弁造さんのかつての現在であり,今となっては過去には違いないが,それが僕の現在と強く関わっていく.「過去」と「現在」を新たにつなぎ合わせ,「弁造さん」と「僕」という存在を結びつけていく写真は「メディウム」そのものだった」(p. 244)

実体としての “弁造さん” はすでにこの世にはいない.それでも写真を通して過去と現在が双方向的につながり,2019年の今に至るまで写真家と被写体がたがいに作用しあっている.読了後もいつまでも余韻が響き,くりかえし残像が浮かび上がる良書.

なお,奥山淳志写真集『弁造 Benzo』(2018年1月刊行)は著者により私費出版されている.