『津田梅子:科学への道、大学の夢』書評

古川安
(2022年1月19日刊行,東京大学出版会,東京, ii+198+12 pp., 本体価格2,800円, ISBN:978-4-13-023078-0目次版元ページ

【書評】※Copyright 2022 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

「世の女子たちのためにも道を拓きなさい」

津田梅子が発生学者・遺伝学者 Thomas H. Morgan の最初の共同研究者として経歴を積んだことはワタクシはずいぶん前から知っていたが,一般にはほとんど知られていないということか.本書は津田梅子の二度にわたるアメリカ留学と帰国後の日本での足跡について,広範な資料を踏まえて書かれている.ワタクシ的には “生物学者” としての梅子の経歴がわかってよかった.

 

第1章「アメリカに渡った少女」(pp. 9-42)では,1871年に欧米視察を目的とする岩倉使節団とともに6歳で渡米した梅子の留学生活に光を当てる.最年少の官費留学生だった彼女は11年間に及ぶ滞米ののち1882年に帰国する.ただし,このときは大学での教育は受けなかった.日本に帰ってきてからは英語教師として働いたが,ほどなくアメリカ再留学に向けて動き出す.フィラデルフィア郊外にあるブリンマー大学(Bryn Mawr College)が彼女の受け入れを認めたのは1888年のことだった.1889年再渡米.

 

第2章「ブリンマー大学と生物学」(pp. 43-67)は,梅子の二度目の留学先となったブリンマー大学の教育・研究体制に目を向ける.この大学の大きな特徴は「女子大ではあるが,いわゆる『良妻賢母』的女性を育てることを目的としなかった」(p. 46)という点にある.さらに,この女子大学は自然科学の教育・研究に重きを置いていた.「留意すべき点は,当時はアメリカでもまだ高等教育が女性の健康を蝕む危険があるとまことしやかに囁かれていた時代だったことである.科学への道に進む女性も少なかった」(p. 48).この点を考えればブリンマーは先駆的だった.ブリンマー大学の生物学科は,19世紀末の生物学の趨勢を反映して,実験研究を重視する動物学・発生学の教官たちを擁していた.梅子の指導教官となる Thomas H. Morgan はもちろん Jacques Loeb ら第一線の研究者たちが揃っていた(pp. 48-54).

 

アメリカに再留学するオモテ向きのタテマエはあくまでも英語教育の勉強にあったが,日本での華族女学校の英語教師に飽き足りなかった梅子はブリンマーで生物学の世界に深く入り込んでいく.第3章「生物学者への道」(pp. 69-99)はその足取りを詳細にたどる.マサチューセッツのウッズホール臨海生物学実験所での経験もそのひとつだ(pp. 70-74).しかし,何と言っても実験発生学者 T. H. Morgan との出会いは決定的な影響を梅子に残した(pp. 74-80).しかし,その生物学者としての将来を有望視されたにもかかわらず,彼女は帰国の道を選んだ.

 

本書の中で,アメリカからの帰国をめぐる梅子の “葛藤” を論じたこの部分は,その後の梅子のたどった道を理解する上でも,きちんと読む必要がある.官費留学だったので日本帰国は必須だったことと同時に:「仮に帰国して生物学を続けるにしてもそれを職業にすることは不可能に近かった.当時の日本の状況は女性が科学者として生きる道はほとんど閉ざされていた」(p. 84)という彼女にとっての厳しい状況は,具体的には「梅子の帰国時は,女性にとって科学研究者のポストは皆無といってよかった」(p. 84)という現実問題として眼前に突きつけられた.

 

著者はこう書いている:

「女性が科学者として生きることが不可能に近いとわかっていた時代状況の中で,敢えてそうしたのは,梅子なりの時代への挑戦だったのではないだろうか.日本では実現できないことをアメリカで自ら実践することにより,日本女性のタブーに挑戦し,不可能が実は可能であることの証を見出そうとした.そしてその体験は大きな自信となり,帰国後の梅子の女子教育の原点になったのではないか」(p. 92).

 

続く第4章「英学塾の裏側で」(pp. 101-124)と第5章「塾から大学へ」(pp. 125-159)は,梅子が創立した誰もが知っている(だろう)女子英学塾から現在の津田塾大学への歩みなので,関心のある向きはどうぞ.

 

最後の長い「エピローグ」(pp. 161-176)で,著者はふたたび “生物学者・津田梅子” の話題に戻ってくる.20世紀に入ってからやっと女性科学者の “ロールモデル” はぽつりぽつりと増えてきたが,それでもまだ少ないことは現在でもなお論議されている.逆に時代を遡ると,梅子が生きた時代は女性生物学者という “ロールモデル” が国内では皆無だったという点で彼女は「孤立」(p. 165)していた.

 

著者は最後に女性科学者に対して伝統的に押しつけられてきた “ジェンダー規範” に言及している(pp. 168-169).なぜ初期の「女医」は産婦人科医が多かったのだろうか.なぜ「女性科学者」の多くは生涯独身だったのだろうか——読者それぞれが考えをめぐらすまたとない機会を本書は与えてくれる.

 

幕末の江戸,橘栄は,さる旗本との結納の儀を土壇場で蹴って家を飛び出し,絶縁されてまで医術の道を選んだ娘・咲に対してこう言い諭した:

「負けは許しませんよ,咲.おまえは戦のような人生を歩むのでしょう.けれど,選んだのはおまえです.橘の家に泥を塗っても,その道を選んだのです.ならば,勝ちなさい.橘の家のために.同じような生き方を選ぶ,世の女子たちのためにも.道を拓きなさい.母はここで見ております.くじけることは許しませんよ.楽しみにしています.咲.」(〈JIN—仁—完結編〉第1話:2011年4月17日TBS放映)

津田梅子がこの世に生を享けたのは,まさにこの同じ年(元治元年[1864年])の大晦日のことだった.

 

三中信宏(2022年11月26日公開)