『ローマ字文の研究』

田丸卓郎

1920年11月15日刊行,ローマ字教育会,東京,216+128+6 pp.)

年の初めの「ローマ字」 —— 快晴で北風が冷たく感じる元日の午後,〈イーアスつくば〉に出かける.元日だけは店も閉まって静かな世の中というのはもう昔語りなのだろうか.近年は一月一日から営業を始めている店が少なくない.〈イーアスつくば〉も年の初めから買い物客でごった返していた.一階フロアの一角に期間限定で店開きしていた〈古本れんが堂書店〉で新年早々の物色.歴史ものを中心に美術・芸術・芸能関係の古書の品揃えをしていた.その中で平台から一冊ピックアップしたのが本書.たった500円.日本における「ローマ字推進運動」の中心人物の手になる本.「訓令式ローマ字記法」のもとになる「日本式ローマ字記法」を体系づけた書物だという.

日常生活では「ヘボン式ローマ字記法」が普及しているが,正書法(orthography)としてのローマ字記法を考えるとき,田丸の「日本式」は避けては通れないだろう.要するに,日本語をローマ字表記する正書法がいまだに確立していないという現状だ.本書の前半部200ページは,「ヘボン式」との比較のもとに「日本式」によるローマ字正書法を解説している.付録の120ページは文典.音声との対応はもちろん,大文字小文字の使い分け,分かち書きの規則,そして略記法についても触れられている.思い起こせば,ローマ字って小学校のころに習っただけではないだろうか.自白すれば,恣意的にアルファベットに「翻訳」したものをローマ字であると信じてきた過去がある.

ローマ字正書法が確立していないとなると,生物の和名や地名などの固有名詞の表記が揺れ動く.国際標準的にはISOが「訓令式」を採用している以上,それに変わるものはないだろう.しかし,巷間では俗流ヘボン式が幅を利かせているのだから,それを考慮しないわけにはいかないのかもしれない.本書の前の持ち主はローマ字表記派だったのだろうか,見返しにローマ字表記各派の長所と短所に関する読書メモをローマ字で書き記している.

自分自身が受けてきた[はずの]ローマ字教育のかすかな記憶に照らし合わせると,この本に書かれている内容は,驚くほど詳細かつ多岐にわたっている.日本語をローマ字表記する“案”としては,本書が提唱する「日本式」とその好敵手である「ヘボン式」の他にも,「南部式」とか「左近式」などいくつもの学派があったそうだ(「速記法」の系譜みたいなものか).さらに,「分かち書き(附け離し)」の方式をめぐる議論,大文字・小文字の使い方の規則(「日本式」ではドイツ語と同じくすべての名詞は「大文字」で始まる),ローマ字での略記法の定式化(「10日=10 ka」,「三丁目=3-ty.」,「一番地=1-bt.」など)といった,初めて知ったことが山ほどある.

一般的な文字表記の問題としては,「ローマ字問題」はおもしろいといえばおもしろい.しかし,こういう議論が現代の社会生活の中でまったく取りざたされる機会がないということは,とりもなおさずローマ字表記がまったく定着していないことの証拠でもあるだろう.しかし同時に,何らかの理由で“厳密”な(すなわち誤解されない正確さを持った)ローマ字表記が求められる状況があるとしたら,あらためて自分でローマ字表記の正字法を一から体系だてる必要があるということでもある.ISO採用の「訓令式」ローマ字表記は,こういう長年にわたる議論を踏まえたとき,はたして合格点に達しているのかどうかはよく知らない.

もう昔のことだが,柴谷篤弘さんが自分の名前を「Atuhiro Sibatani」といつも書いているのを見て,その「訓令式」表記に違和感を感じたものだが,いま考えてみれば彼なりの考えがあってのことだったのかもしれない.さいわい(なのかどうか),ぼくの名前はいずれのローマ字表記法でも同一なので,そういう問題はまったく表面化しなかったのだが.

—— 考えるほど悩ましい問題が浮上してくる.ローマ字表記の問題にいま深入りしたくはないし…….それとは別に,たった「五百円」でここまで楽しめる古書はなかなかない.正月早々とても縁起がよかったなあ.