『筆順のはなし』

松本仁志
(2012年11月10日刊行,中央公論新社中公新書ラクレ・435],東京,270 pp., ISBN:9784121504357目次版元ページ

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漢字筆順の自然的変異と教育的規範との二律背反

たまたま書店で見つけたこの新書は,漢字の筆順がめっちゃくちゃなワタクシには “救世主” のような本だった.要するに,筆順は人生にとってたいした問題ではないということ.まったく同一の漢字が日本・台湾・中国では異なる筆順で教えられているという一点を知っただけでも十分すぎるほど救われる.漢字の筆順に関心のある向きは迷わず本書を手にするべきだ.



日常生活のなかで漢字の筆順を気にする日本人はきっと多いと思う.しかし,本書を読めば学校教育で “規範” とみなされている筆順は歴史的にはかなりアヤフヤであることがよくわかる.漢字ならまだしも,ローマ字とかギリシャ文字とか別系統の文字あるいは数字の「書き順」なんか,日本人は勝手にてきとーに書き綴っているのではないだろうか.以前,ギリシャ人によるギリシャ文字の筆順の動画を見たけど,「ええっ!」と驚く場面が多かった(とくに大文字).外国人の数字の手書きのええかげんさに驚倒した人もきっといるだろう.



ワタクシ的には,書道とかカリグラフィーのような「文化的技芸」の伝承を除けば,文字の筆順にこだわる必要はまったくないと思っている.とくに,今では肉筆で書く「公的」な状況はほとんどないので,可読性さえ保たれていれば筆順はどうでもいい.もちろん漢字の筆順は「なんでもあり」とは考えない.書字動作のメカニカルな観点から見て “ありえへん” 筆順と “許容できる” 筆順はおのずと分別できるだろう.だからといって,許容される複数の筆順のどれかひとつだけを「規範的筆順」として過度にきびしく強制する意義はすでになくなっているにちがいない.



本書を読むと,筆順に関する(過度に)規範的な態度はもっぱら初等教育での「教育効率」の観点から長年にわたって育まれてきたようだ.1958年に旧文部省から出され,現在にいたるまで使われ続けている『筆順指導の手びき』が,たとえ漢字筆順の “多様性” を容認していても,「規範的筆順の『揺れ』は指導者サイドからすると大変困った問題」(p. 77)であるという認識が教育現場にあるかぎり,筆順の “多様性” は必然的に抑圧されることになる.



著者はこう言う:


「これまで,筆順は一漢字一筆順とは限らないという話をしてきました.それでは小学校1年生に『この漢字には二つの筆順があります.どちらで書いてもいいですよ』と指導したらどうでしょう.児童はどちらかの筆順を選んで書くでしょうが,小学校低・中学年は『どちらでもいい』といった許容を理解して器用に使いこなせる年齢ではありません.この段階で許容を示すことは,『筆順はどうでもいいんだ』という筆順軽視の意識を醸成することにつながりやすいと言えるでしょう」(p. 218



著者のスタンスはきわめて明白であって,たとえ漢字の筆順に “多様性” あるいは “揺れ” が現実にあったとしても,そのばらつきを抑圧して単一の「規範的筆順」にそろえることが初等教育の観点からは効率的であるということだろう.こう明言してもらえると,ワタクシ的にはとてもありがたい.つまり,いったん初等教育の「外」に出れば,筆順の “多様性(揺れ)” は大手を振って生き残れるからである.



動作や作業の「順序」に関して,学校教育の中で設定された “規範” に一律に合わせようという目標設定は効率の点からはつごうがよいのかもしれない.しかし,その “規範” ははたしてどのような経緯と論拠のもとに構築されたのか.著者のもくろみとは裏腹に,本書は筆順に関する現行の “規範” の合理性にむしろ疑問を投げかけているようだ.



そもそも,なぜ筆順を学ぶ必要があるのか.この疑問に対して,筆者はこう答える:「筆順学習は必要だとする根拠の一つとして『手書き文字文化は守り継承していかねばならない』という社会のニーズがある」(p. 31).確かにその通り.日本語の手書き文字文化を継承保全するという目標設定は,他のすべての伝統的技芸がそうであるように,大きな意義があることは否定のしようがない.しかし,その技芸の一端に掲げられた “虚構の規範的筆順” は万人が身に付けるべき技芸なのだろうか? ワタクシはそうは思わない.



著者は:「一通り文字が書けるようになった大人は,いまさら基準の筆順に直す必要はないと思います」(p. 206)とこともなげに引導を渡してくれる.すばらしい! ありがとう! 学校だけがわれわれの生きる世界のすべてではない.



三中信宏(2014年5月13日)