『民族という虚構』

小坂井敏晶

(2002年10月10日刊行,東京大学出版会,東京,viii+201+3 pp.,本体価格3,200円,ISBN:4130100890目次版元ページ

【書評】※Copyright 2002, 2011 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

アンチ本質主義から見た「民族」観



本書のメッセージは明快である――「民族同一性は虚構に支えられた現象だ」(p.iii)という主張を社会心理学の観点から立証するのが本書の目標である.

「人種」とおなじく「民族」もまた客観的な根拠のないカテゴリーである.本書の前半部分では(第1〜2章),生物学的にみても根拠のない「民族」がどのような詭弁によって生き延びてきたのかをたどっている.確かに,「ある分類形式が人間にとって自然に見えるからといって,それが世界の姿を客観的に写していると言えないのは当然だろう」(p.6)という著者の見解に私は賛同する.



「分類の恣意性」(p.23)にこだわるあまり,著者は池田清彦渡辺慧のいう「醜い家鴨の仔の定理」に言及しているが(pp.6, 23),これは勇み足である.また,生物の系譜や血縁まで「虚構」(pp.41, 56)であると断言しているのは明白なまちがいだと私は思う.生物に関わるすべてのことが虚構であり,社会的・文化的に構築されたとみなす本書の基本的スタンスは再考の余地があるだろう.著者は,本書が「ポスト・モダンなどという無意味なレッテルが貼られることだけはないように願っている」(p.199)とわざわざ断っているが,思い当たる節があるからこその付言だと私は感じた.概して,生物学に関わる本書の記述は,まちがっているかさもなければ偏向していると私は感じた(たとえば,pp.153-154など).



しかし,こういう勇み足や言い過ぎは,本書全体の価値を減じるものではない.著者の問題意識ないし問題設定は明確である.「日本人とか中国人あるいは日本とか中国とかいう対象はそもそも実在するのか,また存在するとしたらどういう意味で存在すると理解すべきなのかという点にある.言い換えるならば,集団現象はどこにあるのか,個人の頭の中にあるのか,集団というモノがあるのかという存在論が問題になっている」(p.53).この問題設定は,【種問題】とも密接に関係する論理形式を共有している.すなわち,「民族という言葉が使用されるとき,時間の経過とともに様々な要素が変化するにもかかわらず,その集団に綿々と続く何かが存在しているという了解がある.この時間を越えて保たれる同一性はどのように把握すべきなのか.絶え間なく変化していくという認識と同時に連続性が感じられるのは何故なのだろうか」(pp.29-30)というおなじみの問題である.



この問題に対して,著者は「心理現象としての同一性(pp.48ff.)」という解答を用意する.記憶や意識による personal identity の保持であったとしたら,かつてのジョン・ロックの焼き直しにすぎないが,著者は一歩進めて社会心理学の観点から,集団における虚構としての民族概念の成立を論じる.とくに,「対象の異なった状態が観察者によって不断に同一化されることで生じる表象が同一性の感覚を生みだす」(p.50)という主張には魅力を感じる.identify する者がいればこその identity という見解だ.



民族観を「あたかも変化を超越した実体が存在するかのごとき感覚」(p.52)を生む社会心理現象として論じている点が本書の魅力であり,後半の章では,具体的な事例(在日朝鮮人社会における民族同一性の意識など)を取り上げている.虚構をネガティヴにとらえるのではなく,むしろ虚構による民族同一性を積極的に評価しようというのが本書後半のメッセージだ:「民俗や文化に本質はない.固定した内容としてではなく,同一化という運動により絶え間なく維持される社会現象として民族や文化を捉えなければならない」(p.191)――すべて虚構だとみる著者の見解に私は与してはいないが,民族という生物カテゴリーをアンチ本質主義の観点から捉えようとする著者の姿勢には共感する.



「変化するものがなぜ同一であり続けるのか?」という形而上学の問題は姿形を変えて,さまざまな状況で表面化する.【種】しかり,【民族】しかり.



追記]本書の増補改訂版『増補・民族という虚構』(ISBN:9784480093554)は,2011年5月に筑摩書房ちくま学芸文庫]から刊行される.



[再追記]増補改訂版は今月出版された:小坂井敏晶『増補・民族という虚構』(2011年5月10日刊行,筑摩書房ちくま学芸文庫],東京,362 pp., ISBN:9784480093554版元ページ)→ 書評



三中信宏(2002年10月30日/2011年4月5日改訂/2011年5月31日再改訂)