『Genes, Categories, and Species: The Evolutionary and Cognitive Causes of the Species Problem』

Jody Hey

(2001年7月刊行,Oxford University Press, New York, xviii+217 pp.,ISBN:0195144775

【書評】

※Copyright 2001-2006 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved




「種問題の進化的ならびに認知的原因」という副題を持つ本書は,「種問題」(the species problem)がなぜ生じるのか,なぜ解決できないのか,われわれは「種問題」−「種」ではない!−とともにこれからどう生きていけばいいのかを論じます.



著者の言う「進化的原因」とは,系統発生の素過程を担う群として定義される「進化群」すなわち「evolutionary group」(p.74)−私が理解する範囲では系統樹ののある断片−が,境界不分明でありしかも unknowable かもしれないこと,一方,「認知的原因」とは,ヒトの認知的性質(プロトタイプ効果と心理的本質主義)による特有のカテゴリー化を指します.



本書全体を通じて,「言葉としての種」(キャピタルで SPECIES と表記)と「ものとしての種」(speciesと通常表記)とがはっきり区別されています.「言葉」としての種(SPECIES)とは単なる記号であり,何者かを指示しているわけではありません(p.x).一方,「もの」としての種(species)とは生物個体(organisms)の群を指します(p.x).



読み進むうちにわかるのですが,SPECIES と species との区別は,両者が進化群をどのように認知カテゴリー化するのかを記述する上で,重要な意味をもってきます.序文の言葉:「speciesをどのように同定するか,そして SPECIES をどのように定義するかについて生物学者たちはしばしば定見を持っておらず,意見が分かれることもよくある.このふたつの問題点は互いに密接に関わり合っており,ひとまとめにして種問題(the species problem)と呼ばれている」(p.vii)

種問題の核心は「ヒトによるカテゴリー化」の性質にあり.そして,われわれによる認知カテゴリー化は生物多様性を理解する上でしばしば障害となります.種問題とはヒトが罹患する一種の「病気」であり,その「やまい」とともにいかに生き続けていくのかが,今後の大きな課題となります(p.viii).



John Maynard Smith は本書に寄せた Foreword の中で,「“種とは何か?”という疑問を観察や実験によって解決できるなどとは誰も思ってはいないのだ.言い換えれば,彼らは科学者に期待されているようなふるまいをしていないということだ.なぜなんだろうか?」(p.xv)と指摘します.Maynard Smith は種の自然類(natural kind)としての側面に言及した上で,「水の上を歩けるなどと信じるのではなく,われわれのもつ限界を認識する分別を持つべきだろう」(p.xvii)と結びます.実にタイムリー("EVOLVE"的意味で)な本です.



Part 1 では,なぜわれわれ人間は「種問題」に罹って苦しむことになるのか,その病因を分析します.ペットや家畜と人間との関わり合いを文化史的に論じた:ハリエット・リトヴォ『階級としての動物:ヴィクトリア時代の英国人と動物たち』(2001年9月10日刊行,国文社,ISBN:4772004858目次・書評)では,イヌの「分類」について延々と議論されています.愛玩動物としてのイヌをいかにして「分類」するか,「犬種」をどのようにして定義するかについては,18〜19世紀のイギリスでたいへんな論争があったそうです.



Chapter 1 では,この「イヌ分類」を例にとって,われわれが生物をどのように「分けてきた」かを概観します.SPECIES とは「distinct kinds」である(p.3)−にもかかわらず,生物学者は長年にわたって解決の展望のないまま,種問題−SPECIES の定義ならびに species の同定−に悩んできました(いまもなお).コンセンサスもなければ,進歩もないというこの泥沼は,種問題を科学的問題とみなすかぎり,尋常のことではありません.



形而上学で言うカテゴリーとはものの類(kind)です.もともと SPECIES という言葉は,生物学で用いられる前に,この形式論理学の世界で長く使われてきました.Darwin 自身は species は他のランクと本質的に違いがないとみなしてきました(p.8).しかし,皮肉なことに,現代の生物学者はむしろ後退してしまって,species は自然界に存在する distinct real things であり,変種などとはことなるランクであるとみなしています.



彼らはもちろん本質主義には与しないのですが,species が何かしら特別な存在であるという共通意見をもっており,この点で Darwin と対立します(pp.8-9).この復古的な見解は SPECIES の定義にも反映しており,さまざまな相異なる意味で同じ SPECIES という言葉を用いるというジレンマにわれわれは苦しんでいます.



種問題とともに生きているわれわれにとって,それをどうやって解決するのかは,たいへん重要な問題ですが,シンプルな解はありません.種問題を統一的に解決するような大域解をあきらめて,個々のケースごとに局所解を求めればいいのではないかという意見もあります(p.10).しかし,それではだめなのです.ある意味で生物学者たちは種問題に関しては【ビッグ・オー】−すなわち,SPECIES の一発解答−を探し求めているからです(p.12).



種問題は,他の科学的問題と比較すると,その異質性が明らかになります.「何がわかればその問題が解けるのか?」を問わないという特徴があるからです.むしろ,知見はすでに十分にあるのではないか.にもかかわらず,種問題に立ち入ったとたん,泥沼と化してしまう.あえて問いたい:「種問題を解決しようとするには,何が必要なのか?」(p.14)



種問題に対する「局所解」として DEME という言葉が提案されたことがあります.植物学者 J.S.L. Gilmour らが,旧来の SPECIES に対抗して1939年に提案したこの言葉は,種問題をめぐる伝統的分類学者と当時の先端的進化学者との感情的対立を回避するために編み出された言葉だそうです(M. P. Winsor 2000. Species, demes, and the omega taxonomy: Gilmour and the New Systematics. Biology and Philosophy, 15: 349-388).



Chapter 2 では,species を測るという問題に取り組みます.なぜ測るのか?−精神的内包(ことば)から実在的外延(もの)への参照,あるいは感覚から実在への橋渡しには,何らかの「測定」が不可欠です(pp.16-17).測れればこそ理解は可能になります.では,species は測ることができるのか?−lumper/splitterの問題,数え間違い,境界のfuzzy性など species の計数はもともと不可能ではないのかと著者は指摘します(pp.18-21).もともと数えられないものを数えるという矛盾は,「species は数えられるものである」という生物学者たちの主張をくつがえします(p.23).



種の計数ができないとしたら,どうすればいいのか−species は「実在」するという仮定そのものを外した上,human mind の介入があるのだとみなせばいいだろうというのが著者の意見です(pp.24-25).Quine の言語論を踏まえて,著者は species に関する生物学側の立場だけでなく,SPECIES をめぐる言語学認知科学側からの視点が必要になるだろうと結論します.

Chapter 3 では問題設定を変えます.種問題は果たして解く必要があるのか,解かねば困るような状況があり得るのかという問いかけです.生命(LIFE)という言葉があります.life はもちろん生物学の根幹に関わる現象ですが,LIFE が定義できないからといって,生物学の日々の営みには支障ありません.CELL, ORGANISM, GENE など類例はいくでもあります(pp.32-38).要するに,これらの言葉は「確かに重要なのだが,生物学理論の基盤ではない」(p.39)から,あえて定義する必要がないということです.しかし,SPECIES はそれと同列に論じるわけにはいきません.「われわれが SPECIES problem とは異なり LIFE problem に苦しまないですむのは,life の正体,LIFE のあらゆる定義,ボーダー的な状況について十分な知識を持っているからである」(p.39).



LIFE や GENE がいわば脇役に徹しているのに対し,SPECIES はそうではありません.昨今の種論争の泥沼化を見るかぎり,なぜそういうことになってしまうのかが不思議だと著者は言います(p.40).「こと species と SPECIES に関するかぎり,われわれは非合理なふるまいをしてしまうのだろうか」(p.40)という告白は,SPECIES をめぐるわれわれの精神的内面に議論を向かわせます.



Part 2 に進む.日本進化学会京都大会(京大)で,長谷川眞理子さんは「種に関するコミットメント効果」について発表されました.SPECIES と species についてわれわれ人間はコミットメントを示す強い性向があるのかもしれません.これは進化心理学のおもしろいテーマだ!



本書のユニークな点は,議論の骨格を明確にするために species と SPECIES とを最初から分離し,それぞれについて別々のアプローチを取っているという点です.もちろん,両者は絡みあっているわけですが,少なくとも論議はよりクリアになる.



Chapter 4 は,自然界とそれを記述する言語との対応関係が不完全なのではないか(p.45)という観点から議論が始まります.もともと本書は「言語」の問題に重きを置いているのですが,SPECIES と species との関係についても,言語と世界とのズレが「種問題」のベースにあるという主張が再び提示されます.



言葉と実在とが構造的に一致するという哲学上の長い伝統を著者は「共通構造モデル」(p.46)と呼びます.明らかに,それは実念論(realism)の立場を指しているのですが,著者は「種問題」が生じる一因はこの共通構造モデルが成立していない点にあるとみなします.たとえば,連続な現実を離散な言葉でパッケージできるのは,あくまでも近似的にのみいえることでしょう(p.47).



しかし,共通構造モデルの背後には,類(class, kind)に関するカテゴリー論の大問題が控えています(p.48).その言葉の真の意味で「形而上学」的な対立が種問題の根底にあるということです.種は世界を構造化するためのカテゴリーですから,それから逃れることはできません.とりわけ,西洋哲学のカテゴリー論の背後にある実念論がもたらす問題点を著者は取り上げます.自然類(natural kind)は自然界に実在するのか? そういうカテゴリーは少なくとも人間の心の中には存在する(p.51)と主張する著者は,アンチ実念論−少なくともイギリス経験主義的な「概念論」,もしかしたらオッカム的「唯名論」−の立場で論議を進めます.



普遍(universal)としてのカテゴリーが実在するかどうかは,中世哲学の「普遍論争」の再現であり(p.52),著者は現代の生物学者たちはそういう哲学的問題から目を背けるべきではないとしつつも,プラグマティックの観点からも自然類は唯名論的に疑ってかかるべきだろうと言います(p.53).



では,種という自然類が実在しないとしたら,それは何に由来するのか?−著者はここで認知心理学をもちだします(pp.53ff.).すなわち,カテゴリーが「心の中に存在する」ならば,種もまた同じだろうということです.認知的なプロトタイプ効果や George Lakoff の言う「embodyment」の理論がここで紹介されています.



認知的な自然類はわれわれの自然観をどのように歪めてきたか−「生物学者はカテゴリーが何よりもはじめに心の中に存在していることを知るべきだ」(p.60)と結ばれます.



本章は,カテゴリーや類をめぐる形而上学的な議論が種問題の根幹であることを読者に再認識させています.



Chapter 5 は,類型学的思考を裏打ちする本質主義の議論で,民俗分類学の話題が登場します.「本質主義は死なず」(p.65)という発言は正しいですね(私もそう思う).だからこそ種問題はなくならない.



Chapter 6 は,形而上学から生物学に復帰します.生物多様性のパターンがいかにして生成したのかを理解するために,著者は【進化群(evolutionary group)】という概念−以下では EG と略記−を導入します(p.69).EG とは「DNA複製子から成る群ならびにその複製子が生成する生物の群」(p.74)であると定義されます.私が理解するかぎり EG とはクレードにほかなりません(なんでわざわざ新造語したのだろー?).自然界に存在はするが,必ずしも明白な境界をもたない(p.87)というこの EG は,後の章でもくり返し登場するキーワードのひとつです.



Chapter 7 では,前章で導入した EG について,その進化(複製,突然変異,組換えなど)と多様化(フラクタル理論に著者は言及する)さらにはその境界のファジー性が考察されます.「実在種」(real species)という言葉が登場するのはこの文脈です:「多くの種論議は実在種が自然界に存在するのに,それは境界不分明かつ不可算かもしれないという単純な事実を見過ごしている」(p.101).



EG はこの「実在種」のモデルとみなされます:「続く部分で私は EVOLUTIONARY GROUP という言葉を用いるが,時には同義語として REAL SPECIES を使うこともあるだろう」(p.104).私には理解し難い点なのですが,ここで再び「SPECIES」を用いなければならない理由はどこにあるのでしょうね.おそらく,著者の意図としては,生物多様性を生成する機構として evolutionary group を想定したということなのでしょうが(この点は問題なし),少し中途半端な印象は残ります.

Chapter 8 は,EG の議論を踏まえた認知的種概念(自然類としての)の再考です.形而上学的には種問題は実念論vs唯名論の普遍論争の再燃なのですが,著者は生物学的に種問題をとらえなおし,認知カテゴリー化の原因となる生物多様性の反復パターンそのものに目を向ける必要があるだろうと指摘します(pp.106-107).



認知カテゴリー化は確かにヒトの「業」ですが,それは必ずしも自然界の理解にはつながりません:「われわれは種問題に苦しんでいる,しかしその原因がわれわれ自身であることがわかっていないのだ」(p.109).自然界に生物多様性の反復パターンを生みだすのは EG である−それが認知カテゴリー化の究極因であると著者は言います.われわれヒトがそれをうまくとらえられないことが種問題の「痛み」の原因だということ.



Chapter 9 は,自然の反復パターンがいかにして自然類というカテゴリーを生じさせてきたかを論じます:「われわれのカテゴリー依存は古くそして深いのだ」(p.111).心理的本質主義とプロトタイプ効果という性向をもつ人間は,生まれながらのタイポロジストであり(p.121),自然界に反復されるパターンを言語として捕捉し,自然類としてカテゴライズしてきました(p.113).パターンを理解するもっとも原初的なプロセスは Terry Deacon の説に沿って「recurrence cycle」というメカニズムによって説明しようと著者は狙っています(pp.125-128).



EG は誤解を招きやすい概念だと思いますが,真意を理解すれば問題はないかな.

このように考えてくると,「種問題」は解決できるかどうかはもはや問題ではなくなります.むしろ「どのようにして種問題とともに生きていくか?」が人生の大きな問題となってきます.最後の Part 3 ではこの問題が議論されます.



Part 3 では「種問題病」罹患率が顕著に高いいくつかの領域を挙げながら,「種問題とともに生きていく」ことを教えてくれます.



Chapter 10:「系統学」.近年の系統学では,とくに系統関係にもとづく種概念(いわゆるPSC)の議論が盛んです.分子遺伝学者である著者は,gene-tree / species-tree の矛盾を指摘しつつ,EG が系統学的に見て境界不分明であることから,系統樹モデルが必ずしも妥当ではない,したがって phylogenetic taxonomists が主張するような単系統的な種概念は幻想だと批判します(pp.143-144).分岐学者の種論議への攻撃は次章にも続きます.



Chapter 11:「体系学」.とりわけ「種病者」が多い体系学の領域では,認知的種カテゴリーと進化プロセスの理解とが齟齬をきたします(p.145).進化や系統のことを言い出すからやっかいなことになるのだ,そういうことがらを分類学の範疇に含めなければいいだろうと,分類学者からの「三行半」をつきつけることは可能です.しかし,その結果として,つくられた分類の妥当性や有用性を判定する基準がなくなり(p.146),そしてそういう分類は誰からも期待されなくなる(p.148)という事態に陥るでしょう.分類学と進化学との「離婚」(divorce: p.146)に際しては,離婚の代償を打算的に考える必要があると言います(←ナイスな表現だな).



近年の分岐学者は,こういうやっかいな問題を封印(encyst)してしまい,種定義のあり方に議論を集中させていると著者は批判します(p.149).そもそも前提が間違っているのではないのか?−生物多様性の原因を種の離散的な分化に求めるという前提は,種と種分化はいずれも境界明瞭な現象ではない知見に矛盾すると著者は言います(p.150).



種が生物多様性の単位であるという見解もまた検討を要します.種概念に関する対立が表面化している現在,もうひとつの【離婚】が進みつつあるのではないか−すなわち「体系学における種の自然界の実体からの離婚」を著者は示唆します:「[A] species is just what a systematist says it is」(p.155).



Chapter 12:「進化生物学」.種名ユーザーとしての多くの進化生物学者もまた種概念病に感染する危険性があります.研究対象となる生物のサンプリングの問題を考えてみましょう(pp.160-193).種が自然類であるならば帰納により「同じ種」をサンプルするというプロトコルを採用できます.しかし,種が個物(individual)であるとみなすと生物個体は部分(part)となり,帰納は機能しないからです(p.162).



種概念は操作的であってほしいと期待されますが,代表的な生物学的種概念(BSC)からして操作的ではありません.その理由は,BSCに含まれる「population」があいまいだからです(p.166).



言葉があいまいなのは,その指示対象があいまいだからであると著者は言います.カテゴリーとしての認知と進化プロセスの正体という相矛盾する意味を「種」という一語で表現しようとしたことが,混乱のそもそもの原因です(p.168).



Chapter 13:「種とは何か,タクサとは何か」.実念論に対抗する著者の唯名論的スタンスは本章でやっと明確になります.種一元論(species monism)に対してさまざまな種多元論(species pluralism)が提唱されています(p.172).しかし,唯名論の立場からすると,種や高次分類群は「心の中には存在」しても,それ以上のものではありません(p.174).
最近の種論議では,不思議なことに,この唯名論の立場が表立っては表明されなくなりました.ダーウィンはもちろん唯名論者−正確には「レベル唯名論(level nominalism)」:分類学的ランクに関する唯名論(p.178)−でした.レベル唯名論をたとえて言えば,「流れる水」という現象の存在は実在するが,その「流れ」を「せせらぎ/渓流/河川/大河」のいずれのランクで呼ぶかは恣意的であるという考えに相当する.



高次分類群に関しては,程度の差こそあれレベル唯名論が広まってはいるのですが:

種 だ け は 別 格 の カ テ ゴ リ ー で あ る

という信念は強固に残存しています(p.179).この「species category realism」が本書の最後の標的となります.



Chapter 14:「何をすべきか」.“種定義産業”(SPECIES-definition industry)はもうたくさんだ(p.181)−ほとんどの生物学者が種一元論を信奉している現状は,彼らがカテゴリー論について何も知らないからだろうと著者は言います.



生物のカテゴリー化や命名はヒトにとって必要ですが,それが EG とどのように対応づけられるかは未知であり,これからも不可知であるかもしれません(p.182).とすると,いまの種タクソンがいかにして命名されているのか,どのような新たな特徴あるいは反復が種タクソンを正当化するのか,その規則がないことになります(p.183).



Real species たる EG のカウントは必ずしも容易ではありません.その一方で,絶滅の速度を考えるならば,現在の体系学のやり方ではとても間に合わないことは事実です(p.190).まったく別の観点からの生物多様性の評価方法−たとえば,DNA多様性のみによる評価方法(p.191)−も選択肢として考えておく必要があるでしょう.



著者は,SPECIES TAXON(TAXONOMIC SPECIES)という言葉は進化的に起源する生物多様性パターンに基づく生物の類を指すために,そして SPECIES(あるいは REAL SPECIES)という語は EG を指すために用いてはどうかと提案します(p.185).もちろん,それが困難な提案であることは十分承知した上での話.ファジーな EG を境界明瞭な種としてカテゴリー化することはもともと不可能ですから.



……というわけで,「種問題」はこれからも【取扱注意】指定を受け続けます(pp.192-193).その全面解決は望むべくもなく,われわれがせいぜいできることは種研究や種言説が「機能不全」に陥っているという自覚を促し,「do better」(p.192)あるいは「compensate」(p.193)の道を模索するしかないと著者は暗に示します.著者の結論としては,「種問題とともにこれからも生き続ける」のがわれわれに残された選択肢のようです.



本書は,種ならびに種概念をめぐる「種問題」の現状を,単に生物学だけにとどまらず,哲学や認知科学など関連する周辺領域の知見も併せながら,解説した好著であると私は感じました.EG に関する議論は多少ごたごたしていて,もう少し徹底させればすっきりしたのではないかと思われますが,全体としてはよく書かれていると思います.



すでに【種】病に罹っている人,これから罹るかもしれない人,本書はお薦めです.よくぞタイムリーに書いてくれたと私は思いますよ.



三中信宏(初出:2001年 EVOLVE 投稿/2006年4月4日改訂)