Michael Ohl
(2015年刊行, Matthes & Seitz, Berlin, 318 pp., ISBN:9783957570895 [hbk] → 目次|版元ページ)
第3章「Wörter, Eigennamen, Individuen」(pp. 85-112)読了.一世紀前のカリスマ古生物学者 Henry F. Osborn と彼の手足となって東アジア地域の探査を行なった Roy C. Andrews のエピソードから本章は始まる.ハリウッド映画〈インディー・ジョーンズ〉のモデル(のひとり)とされている Andrews が外モンゴルで発見した化石の一つが恐竜 Oviraptor philoceratops だった.その学名を直訳すれば「Ceratops が好きな卵泥棒」となる.たくさんの卵の化石とともに発掘された Oviraptor は他の恐竜(Ceratops)の卵を盗みに入ったところで悪運が尽きて化石になったと当時は考えられていた.
しかし,実際には Oviraptor は卵を盗んでいたのではなく自分の卵の世話をしていたことがのちに解明された.Oviraptor をめぐるこのエピソードは Andrews の伝記:Charles Gallenkamp『Dragon Hunter: Roy Chapman Andrews and the Central Asiatic Expeditions』(2001年刊行,Viking, New York, xxiv+344 pp., ISBN:0670890936 [hbk])にも詳しく書かれている.本章では生物に与えられた名前はどれほど実体と実態を正確に反映しているのだろうかと問いかける.命名規約上は生物学的にまちがっていてもいったん名付けられればそれを変更修正することはできない.とすると,生物の名前は実質的な内容とは関係のない,固有名詞としての単なる「ラベル」と考えるべきなんだろうか.
ここで,著者は個々の固有名詞(Eigennamen)とそれらを含む集合名詞(Appellativa)のちがいについて考察する(pp. 92-93).「バラク・オバマ」や「チャールズ・ダーウィン」という名前が固有名詞であるのは,それらが “個物” に付けられた名前だからだ(p. 94).“個物” でなければ集合名詞と言うしかないだろう.ここでの判断基準は名づけられた対象が「個体化(Individualisierung)」できるのかに集約される.
ここからは予想される通り,議論は種カテゴリーと種タクソンの存在論に関わる形而上学へと移っていく.Ernst Mayr の生物学的種概念に代表される種カテゴリーをめぐる論争(p. 97),そして Michael T. Ghiselin の「種個物説」が提起する種は “個物” か “クラス” かという論争を振り返る(p. 101).
種をめぐるこの論点に関連して,著者は「自然種(natural kinds)」の概念を取り上げる(p. 104).ドイツ語だと自然種という原語には「自然な等化集合(natürliche Äquivalenzklasse)」という集合論の一概念みたいに “解毒” された訳語が当てられてしまうが,どうやら著者は種は個物でもクラスでもない自然種とみなしてはどうかと言いたいようだ(p. 105).
本章の締めくくりは生物体系学とくに系統体系学への言及である.種の形而上学とは別に高次分類群の形而上学も議論の対象であると著者は言う.分岐学が擁護する厳密な単系統群(Monophylum)もまた見方によっては個物であり,他方ではクラス(自然種)でもありえる.