『Metaphysics and the Origin of Species』

Michael T. Ghiselin

(1997年刊行,State University of New York Press, New York, xii+377pp., ISBN:0791434680 [pbk] → 版元ページ

以下の書評は1997年に本書が出版されたのち EVOLVE 進化生物学メーリングリストに流した下記投稿の再録です:

  • [evolve:4059] Ghiselin: "Metaphysics and the origin of species" (1/3)[28 Apr 1998 16:11:06 JST
  • [evolve:4082] Ghiselin: "Metaphysics and the origin of species" (2/3)[2 May 1998 06:02:50 JST
  • [evolve:5500] Ghiselin: "Metaphysics and the origin of species" (3/3 - Final!)[2 May 1999 23:54:48 JST

【書評】※Copyright 1998-1999, 2013 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



「種は個物である」― 自然科学としての形而上学



形而上学種の起源』というタイトルの本書は、もちろん現代進化生物学の2大古典である『遺伝学と種の起源』(T. Dobzhansky, 1937)および『体系学と種の起源』(E. Mayr, 1942)にちなんでいます。「遺伝学〜」・「体系学〜」に続く第3冊目が「形而上学〜」では、違和感を覚える人がきっと少なくないでしょう。形而上学は経験科学には関係ないと考えている生物学者が大半だからです。しかし、Ghiselinのいう形而上学(metaphysics)という言葉は、「実在をそのもっとも根本的レベルで論じる自然科学である」(p.301)と定義されています。ですから、Ghiselinにとっては、経験科学の自然な延長線上に形而上学が位置しているわけです。



生物哲学の著作である本書は、1970年代以降、繰り返し話題になってきたGhiselin自身の「個物としての種」(species-as-individual)説−以下、個物説(individuality thesis)と呼びます−の集大成です。つまり、実体としての生物の「種」が形而上学的な意味で「類」(class)ではなく「個物」(individual)であるという個物説を全面的に擁護するために、本書でGhiselinは「形而上学」そのものを作り替えようとします。この態度は、すぐには理解しづらいかもしれませんが、経験科学あるいは科学史研究における「仮説/データ」の検証図式を形而上学にも適用しようという新しい試みです:


「哲学の学説は仮説と考えよう。すなわち、ある哲学の説から導かれる言明が科学的営為のデータに照らしてどの程度支持されるかを見れば、もとの学説が検証できるだろう。それはまさに自然科学者の態度である。哲学と科学の間に明瞭な境界線を引くことはえてして容易ではない。」(p.13)



形而上学という言葉のもつ思弁的な悪いイメージは、Ghiselinの用法にはまったくあてはまりません。



本書の章構成は下記の通りです。

Preface
 1.Introduction
 2.Beyond language
 3.What an individual is
 4.What an individual is not
 5.Some definitions of 'definition'
 6.Definitions of 'species' and some other terms
 7.Some alternatives to the biological species concept
 8.Objections to the individuality thesis
 9.Working out the analogies
10.Why do species exist?
11.Objective and subjective systems
12.Natural and artificial systems
13.Characters and homologies
14.Laws of nature
15.The principle of historical inference
16.Embryology as history and as law
17.The artificial basis of macroevolution
18.Toward a real history of nature
Appendix: aphorisms, summary and glossographic
References
Index





まずは、前半6章:

序言
 1章.はじめに
 2章.言語論的転回を逆回しする
 3章.これが個物というものだ
 4章.こんなのは個物じゃないぞ
 5章.'定義'を定義しないとね
 6章.'種'その他の用語の定義



を読みます。



この前半部分では、1966年以来一貫して「種は個物である」と主張してきたGhiselinが、その個物説を擁護するために形而上学そのものを新たに構築しました。かつて種概念の論議を沸騰させた「種問題の根本的解決」("A radical solution tothe species problem": Ghiselin 1974)は、四半世紀後のこの新たな「形而上学」の登場をもって、ようやく完結したことになるわけですね。序言の中で彼は言います:


「こういう話題[種問題]はばらばらには説明できない。ある一つのことを説明するにも、他のあらゆることを説明せざるをえないからである。その結果が、以下に示す形而上学の全体系である。」(p.ix);「ここに与えたのは one long argument であるが、それは演繹的な命題連鎖ではなく、説明のネットワークみたいなものである。」(p.x)



こうして、"Species-as-individual"を天守にいただく"metaphysics-as-natural-science"の殿堂が以下の章で建設されます。



第1章では、進化学の歴史を振り返りつつ、「種」の扱われ方を概観します:「あまりに多種多様なものを"種"と呼んでしまったために、それが何を意味しているかは当て推量でしか見抜けなくなった」(p.5)。そして、ダーウィンと彼の先駆者・同時代人に触れつつ、The Modern Synthesisまでの道のりをたどります。



「進化の単位」に話が及んだ途端に、彼の形而上学−「実在のwhat/how/whyを論じる学問」(p.12)−がいきなり登場します。自然科学としての形而上学は、経験科学と同じくデータによって検証されなければならない、したがって、「種の形而上学」もまた現実の体系学・進化学の場で検証されるべきであるというGhiselinの基本姿勢がここで明らかになります。



「個物」(individual)の問題は「普遍」(universal)の問題と表裏一体です。しかし、これまでの哲学−中世以来の伝統的形而上学−では、普遍論争は数世紀にわたって戦わされてきましたが、一方で個物論争はまったくありませんでした(pp.13-14)。普遍(クラス)が実在するかどうかをめぐる唯名論(nominalism)と実念論(realism)の対立も、個物に焦点を当てることはありませんでした。



「種」の存在論的議論はさらに続きます(p.14)。種がクラスであるという説は、唯名論的種概念−'種=クラス'&'クラス=非実在'→'種=非実在クラス'−と実念論的種概念−'種=クラス'&'クラス=実在'→'種=実在クラス−に分けられます。しかし、伝統的形而上学に則ったこの2つの種概念は、「種がクラスではない」−'種=非クラス'&'非クラス=実在個物'→'種=実在個物−というあらたな形而上学的可能性(個物説)を最初から排除しています。



ここで、「定義」の問題が浮上します。クラス(普遍)は外延的(extensional)にも内包的(intensional)にも定義が可能です。ところが、個物は直示的定義(ostensive definition)−'もの'を指しつつ「ほら、そこの'それ'」っていう定義−しか可能ではありません。では、この直示的定義ははたして「定義」と言えるのでしょうか。この点は、第5章で詳しく議論されます。結論を言えば、Ghiselinは直示的定義は「定義ではない」と考えています(p.70)。つまり、個物としての種は「記述・命名」は可能でも、「定義」は不可能という見解です。



第2章で、Ghiselinは、哲学問題を「言語論」に帰そうとする今世紀の"言語論的転回"に対して反旗をひるがえします。つまり、形而上学は「言葉の問題」ではないという主張です(p.19)。様相論理学を踏まえつつ、Ghiselinは「可能性」−物理的・論理的・形而上学的−を議論し、「カテゴリー」の問題に踏み込みます。



アリストテレスの『カテゴリー論』以来、カテゴリー論議は「分類」(classification)の核心に関わってきました。カテゴリーとはグループを作ること、これは「分類」のもっとも基本的な認識です。Ghiselinにとっての「分類」とは「もっとも一般的な意味で知識をオーガナイズするプロセスである」を意味します(p.24)。これは、「分類とはクラスを作ること」と考える"tree-thinker"たちよりもゆるい定義です。



前進化論的な形而上学は、「変化」ではなく「永遠」を重視します。プラトンアリストテレスイデアあるいは本質(essence)に基づく形而上学は永遠なる普遍を重視し、他方で絶えず変化する個物を無視してきました。Ghiselinはこれを逆転させ、個物の変化を前提とする形而上学−「プロセス形而上学」(process metaphysics)−が進化学にとって必要であると主張します(pp.29-30)。



第3章では、このプロセス形而上学をふまえて、個物とは何かを論じます。個物性の判定規準として彼が挙げるのは以下の6規準です:


  1. 例示できない       (pp.38-)
  2. 時空的に限定される    (pp.41-)
  3. 具体的である       (pp.42-)
  4. 自然法則がない      (pp.44-)
  5. 定義形質を持たない    (pp.45-)
  6. クラスに先行して存在する (pp.46-)



個物としての種は、生物個体を「部分/全体関係」(whole/part relationship)として組み込みます(incorporate)。けっして、集合包含関係(class relationship)によって関係づけられていないという点がポイントです(pp.39-41)。



続く第4章では、個物性にまつわる誤解を解こうとします。とくに「個物であることは必ずしも凝集性(cohesiveness)を必要としない」(p.57)という主張が目を引きます。生物個体を「個物」の典型例とみなすからいろいろな誤解が生じるのだとGhiselinは言います(p.51)。



第5章は、定義論−'定義'を定義すること−です。とくに、タイプ標本に基づく「命名」の問題が議論されます(pp.67-)。ある生き物に「固有名」を付けることは、ある「クラス」への帰属を意味すると分類学者は考えています。しかし、固有名を付与することは果たしてそのクラスを「定義」したといえるのか、という問題が生じます。Ghiselinは、固有名は直示以外の内包をもたないので、定義ではないと結論します(p.70)。同時に、Saul Kripkeの命名・指示に関する「可能世界論本質主義」は「わざと議論をこみいらせているだけ」と切り捨てます(p.71)。
 第5章の大きなポイントは「因果学」(etiology, p.74)の復権だと私は考えます。Ghiselinは「われわれ科学者は単にうわべだけだはなくもっと根源的なものを知ることを目的とする。因果という概念は哲学的に難解であり毛嫌いされることもしばしばである。にもかかわらず、もっとも価値の高い科学分科が因果学(etiologicalscience)−すなわち因果を究明する学問−なのである」(p.74)と述べます。これもまたプロセスを重視するGhiselinの見解の一つです。



プロセス重視の因果学から見たとき、事物の定義は「本質」の発見に基づかねばならないという「本質主義的定義」は厳しく糾弾されます(Kripke的な本質主義も含めて)。Ghiselinは、本質主義とは「定義に関するある態度」であり、それは「ヒトとしての行動性向・思考習慣のひとつとして心理学的に説明できる」(p.76,79)と述べています。このあたりは最近の認知科学とも整合します(後の章で彼は認識人類学とは正面衝突するのですが)。それは「個物に先立ってまずクラスがある」という思考法であり、体系学者の言う「類型学的思考」に当たります。



第6章では、いよいよ「種カテゴリー」の定義を行ないます。本章では Ernst Mayr の生物学的種概念(BSC)をまず始めに検討します(pp.93-)。BSCには、交配可能性(現実的かつ潜在的)の規準を述べた部分と、特定のニッチを占めるという規準を述べた部分が含まれます。両規準を満たす「個体群」の「群」が生物学的種です。交配可能性は、「個体の性質」ではなく「個体群の性質」ですから、特定個体間で交配ができるできないは問題ではないとGhiselinは指摘します。したがって、同性個体の間・異なるサイズの個体(チワワとグレートデン)の間・異時的個体間・異所的個体間などの場合、交配可能性が示されないとしても、生物学的種概念にとってはなんら問題ではないと彼は言います(p.95)。また、生殖的隔離は「完全」である必要はなく、「十分」に分かれていればよいと言います(p.96)。Ghiselinの考えは、「形式的定義は現実物ではない」(p.96)という信念に基づいています。BSCに対するこだわりはGhiselinにはないようです。



むしろ、彼がこだわりを見せるのは、「種」を論じる前に「種分化」という進化プロセスを論じるべきであるという点です。すなわち、「繁殖集団としての個体群が分化するプロセスを説明できれぱ種分化は定義できる。その後ではじめて種分化の産物が"種"であるということができる」(p.98)という見解です。これもまた、プロセスをまず考えるべきであるという彼の論点の反映です。



とりあえず、前半6章分の書評を書きました。はっきり言って、本書は「読むのがつらい本」です。「図表いっさいなし・概念満載」というのは「生物学者に嫌われる本」の代表と言ってもいいでしょう。Ghiselinの過去の主張を知っている読者には「ある程度はわかる」と推測しますが、初めての読者はかわいそうですね、きっと。しかし、書かれてある内容はきわめて重要です。「形而上学〜」というタイトルに本能的忌避反応を示す人もいるかもしれませんが、取って喰われるわけではありません。Ghiselin自身も「オカルト形而上学とは無縁である」(p.12)と言っていますよ(^^)。



本書の書評はすでに次の2つが出ています:

  1. Ridley, M. 1998. Individual view. Nature, 391: 653-654.
  2. Ruse, M. 1998. All my love is towards individuals. Evolution, 52(1): 283-288.




Ghiselin書評の第2部です:

 7章.生物学的種概念はきらい?
 8章.袋だたきの個物説
 9章.アナロジー全開
10章.種が存在する理由
11章.客観的体系と主観的体系
12章.自然体系と人為体系



第7−10章では、生物学的種概念を中心に、主要な対立種概念をレビューします。その上で、Ghiselin自身の個物説に基づく種の概念化を提出します。さらに、批判者との対決を経て、11−12章では体系学の哲学に向かいます。そこでは、認知科学との対決も見られます。



第7章では、生物学的種概念(BSC)に対立する他の種概念について解説されます。Ghiselinによる生物学的種概念の定義は、「生物学的種とは、歯止めない分化を妨げるだけの十分なまとまり能力(cohesive capacity)をその内部にもつ個体群である」(p.99)です。彼のいう"まとまり"(cohesion, sticktogetherness)は、AlanTempletonの凝集的種概念(cohesive species consept)を連想させますが、それとは別物であると彼は強調します(pp.113-114)。種をまとまりと定義することで、種が種分化過程の産物であることが明示できると彼はいいます(p.100)。
 前章に引き続き、ここでもBSJにおける生殖隔離は程度問題であること、そして「どれだけ生殖隔離しているかは、生物学的種であるための必要条件も十分条件も与えない」(p.100)という彼の見解を見出します。生物学的種にとって生殖隔離ではなく「まとまり」がより重要であることは、種よりも高次の歴史的実体(種群)が進化過程に関与するという可能性を示唆します。これはsupraspecificな歴史的実体は個物とクラスの「中間的存在」であって、進化過程に関与しない点でクラスであるというEdward O. Wileyの定義とは対立します。P.54でGhiselinが種を越える歴史的実体を種と同じく明確に「個物」とみなした理由もここにあります。



一方で、「種のまとまり」という概念にはいくつか難点があります(pp.101-106):
1)立証が難しい潜在的可能性を含むこと;2)同所的種分化が説明しにくいこと;3)局所的にしか作用しないこと。このような論点を相互評価しながら、他の種概念の検討に進みます。ここでレビューされる種概念は以下のとおりです:形態的/主観的/生理的/認知的/進化的1/進化的2/凝集的/系統的/多元的。とくに、今でも分類学で用いられている形態的種概念に対しては手厳しく批判します。その理由は、形態的種概念の根幹が「表形学」(phenetics)であるからそれだけでもrejectに値することに加えて、形態的差異なる表形的概念は「どれだけ差異があれば形態種にあたるか」を分類者の恣意に任せているので、実はなにひとつ「定義」したことになっていないとGhiselinは述べます(p.106)。



第8章では、個別説に対する批判を取り上げます。これまでGhiselinの学説に対して向けられた反論として、彼は次の8点を列挙します:1)分類カテゴリーが個物であるという誤解(p.123);2)種は生物個体であるという誤解(p.124);3)個物説のむなしい先駆者調べ(pp.124-5);4)直観的でなく常識に反するという保守的論説(p..126);5)唯名論への復帰ではないかという反論(pp.126-7);6)群選択を正当化するのではという批判(p.127-9);7)個物だったら自然法則を論じられないという物理科学信奉者による反対(pp.129-130;8)種は個物ではなく性質・場・関係であるという対立説(p.130-132)。



このように、既存の種概念を振り返ったのちに、Ghiselinは彼の種概念を表明します:「種とはプロセスである」(p.132)/「種とはプロセス実体(processual things)である」(p.133)。「え、それだけ?」と思ってしまいますが、彼にとっては、プロセスがまずはじめにあり、プロセスから逆に「種」を理解しようとしているわけです。「生きる」ものが生物個体であるのと同じく、「進化」するものが種であるという見解です(p.133)。



第9章では、「プロセスとしての種」という見解をさらに発展させます。「種は工場(firm)である」という彼自身が初期に立てたアナロジーを中核として、言語学および経済学への個物説の一般化を行ないました。続く第10章では、性の進化を種の個物性と関連づけて論じます。この章はGhiselinがかつて書いた『自然の経済および性の進化』(1974)の発展形とみなせるでしょう。



第11章では、体系学における客観性/主観性の問題を取り上げます。体系学の議論では、主体と客体すなわち認識論と存在論を混同することがいかに害悪であるかを指摘し(p,165-)、絶対実在論とC.G. Jungの「introvert/extravert」論の観点から真実と知識との対応づけを論じます(pp.164-7)。



経験主義の悪しき側面は「素朴帰納主義」として体系学の歴史に災厄をもたらしたとGhiselinは糾弾します(p.171-)。その一つは、表形学(phenetics)として現れました。J.S.L. Gilomour(1940)のいう「自然分類」(Gilmour-natural classification)が感覚刺激の分類を指していたことは、表形分類が事物それ自体ではなく、表面的な「現象」のみを見ていたことを私たちに教えます(p.170-1)。同時に、この素朴帰納主義のもとでは、「因果分類」(etiological classification)が最初から排除されてしまう点に彼は目を向けます。第二に、「単位形質」(unit character)の問題に進みます(p.172-3)。



本章の締めくくりは、1960年代後半から70年代前半にかけて流行した数量表形学への回顧と批判です(p.172-179)。生物種と系統発生は推論に過ぎないから、生物分類から排除すべきであると主張した表形学派は素朴帰納主義の産物であること、「全体的類似度は存在する」という表形学者の信念は間違いであることを彼は再び指摘します。この文脈で、Ghiselinは論理学者Nelson Goodmanの「類似度」に関する批判−「醜い家鴨の仔の定理」−に言及し、1966年にGhiselin自身がそれを指摘していると言っています。(まだ私は確認していません。)さらに、表形学と同じ「素朴帰納主義」の悪影響は分岐学にも及んだとGhiselinは言うのですが(p.179)、いったい何を指しているのだろう?



続く第12章は、前章を受けて、自然分類と人為分類に関する論議に当てられます。この章はGhiselinのホンネが聞けてなかなかためになりました。「自然の体系」(the natural system)という表現は「最良の分類体系はただ一つ」と主張する点で間違いで、分類体系は複数あってもいいのだという声名にまずびっくり(p.181)。この基本姿勢の帰結として、分類体系には「人為的」な要素があってもよい(p.188-9)/側系統群は実際に役立つ必要悪なのだから分類体系に含まれていたってかまわない(p..189-190)/側系統群のような人為的要素が含まれているからといって「悪い分類」とはかぎらない(p.189)という主張を目にしても、さして驚くべきことではありません。Ghiselinが「進化分類学者」であることを確認して私は安心しました(^^)。



安心できなくなったのは、それ以降の主張(p.191-8)。この部分で、彼は認知心理学におけるカテゴリー化の研究史を振り返り、認知科学者はカテゴリー化をクラスの側面からのみ研究しており、個物説の考察がまったく欠けている(p.197)と糾弾します。つまり、生物に関わるカテゴリー化の研究が、分類形式の通文化的類似性を発見したり、従来の行動主義的ドグマを一掃したりという点では貢献したが、個物説の認知的基盤を究明しようとする気運がいまだにまったく見られないのはどうしたことかという見解です。Ghiselinは、ヒトには、集合(クラス)を認知する能力があると同時に、個物を認知する能力も備わっているのではないかと示唆します(p.198-9)。これは、生物分類の認知科学的側面に関わる興味深い(しかもまだ未解明の)問題であると私は感じました。



それにしても、Ghiselinさんという人はなぜ「図表」を使わないのだろう。過去の著作(論文でも)にも彼が図表を書いたという記憶がありません。あれば、ずいぶんと理解度が高まるのではないかと私は考えます。





「連載もの」は、いったん中断してしまうと、「再開」するのにとてつもなく気力が要求されます。書評記事の前半2/3を EVOLVE に流してから([4059]と[4082])、早くも1年が過ぎてしまいました。昨年10月の昆虫学会大会(彦根)で、青木重幸さんから「Part 3 がまだ出ませんね」と言われてからも(読んでくれた人がいたのだ!)、ずいぶん時間がたってしまいました。



途中、「種」が乱入したり、「ダーウィン」が長期滞在したりと、弁解はいくらでもできるのですが、こんなことではイカンのだ!と先日トツジョとして改心し、マーラーの第3交響曲サロネン指揮)をBGMに、農環研図書室書庫にたてこもって、この Part 3 を書きました。

13章.形質と相同について論じる
14章.自然の法則とは?
15章.歴史的推論の原理
16章.発生学−歴史と法則の二面性
17章.大進化論の基盤は虚構である
18章.真の生命史を目指して
付録:格言・要約・用語集



ここまでの章では、ギセリンが提唱する種個物説(species-as-individual thesis)すなわち個物説(individuality thesis)そのものについての議論と反論に対する駁論が述べられました。続く以下の章では、この個物説が進化生物学のさまざまな領域と問題に対して、どのように新しい観点からの光を当てるのかが論じられます。



第13章の主題は、体系学における「形質」(character)の問題です。形質とはいったい何であるのか−この疑問に対する解答は実はまだ与えられていないとギセリンは言います(p.199)。形質が「いくつ」あるのか。形質と形質状態とのちがいは何か。これらの問題を解くには、形質と形質集合にまつわるカテゴリー・ミステイクを除去することが必要であると彼は言います(p.201)。つまり、個物としての形質はその部分(part)として"形質状態"を含んでいるのに、その形質状態を形質に属する要素(element)として"属性"(attribute)をみなすことがそもそものまちがいである(pp.201-202)、部分は触れるが属性は触れない、両者の混同はまちがいである、というのがギセリンの主張です。



次に、彼は、個物説を踏まえて、相同(homology)の問題に切り込みます(pp.204ff.)。相同とは、全体に含まれる部分の間の対応関係であり、対称的かつ推移的です。一方、部分の間の類似関係は、対称的ではあっても推移的ではありません。したがって、相同性は類似性とは何の関わりもないことになります(p.206)。また、祖先の近さは相同の同一性の関数ですが、相同性は同一性でもなければ共有派生形質でもありません。相同とは対応です。一方、相似(analogy)はあるクラスの要素の間の関係です(p.208)。



個物説からみた相同性の議論は、構造主義生物学(structuralist biology)への批判に連なっていきます(p.212)。分類群を個物ではなくクラスとみなすとき、かたちの安定決定因すなわち本質(essence)が必要になります。構造主義生物学が目指しているのはまさにこの方向であり、個物説はそれに対する異議を唱えます。



相同とはクラスではない、それは明らかに個物であることが認識されたならば、構造主義生物学の教義は潰えるということです。



構造主義のみならず、ボディ・プラン、バウプラン、原型、などなど本質主義に結びつくすべての概念は、個物説のもとでは一掃処分されます(p.213)。もともと、「かたち」(form)という概念はオカルト的雰囲気が濃厚でした(p.216)。したがって、形態学がその知的遺産を現代に残してしまったことが、構造主義生物学のような反進化的形態学を生む原因となったとギセリンは言います。



第14章では、進化生物学における「法則」(law)の定義とその位置づけが議論されます。個物説のもとでは、2種類の秩序 (order)すなわち法則性があります。時空非限定的な法則と時空限定的な法則です(p.220)。前者は、普遍な物理学的法則であり、後者は蓋然性と局所性を備えた法則です。生物学に法則はないと主張しているのは、物理学こそ真正科学であると信じている者か、もしくは生物学は法則のない別種の科学であるとみている者です。彼らはすべて間違っています。



個物説のもとでは、生物学の法則とは個物のクラスのための法則です(p.222)。個々の個物に対する法則は存在しないが、個物のクラスに対する法則はあります。たとえば、種分化は異所的に生じるという「マイヤーの法則」がその一例です(p.224)。性淘汰・性比・雌雄同体性など進化生物学において「法則」とみなせるものはいくつもあるとギセリンは主張します。

第15章では、物理学と比較したときの進化生物学の歴史性が強調されます。たまたま偶然、先に書評を送った都城秋穂『科学革命とは何か』(1998: 岩波書店)とパラレルに、地質学と物理学との対比から本章は始まります。都城が地質学の「個性」と「歴史」をその特性として強調したように、ギセリンは研究対象の「個物性」を前面に出します。個物のみならず個物が行なった行動・生態・相互関係もまた個物です。



チャールズ・ライエルの斉一主義(uniformitarianism)に対しても個物説は新たな解釈を与えます。ライエルのもともとの斉一主義には定常的世界観があり、それはアリストテレス本質主義に影響された思考でした(p.233)。しかし、われわれの地球は個物ですから、その個物がたどった歴史的蓋然性を自然法則とみなすべきではありません。同様に、分子時計(molecular clock)もまた個物です。DNA×DNA交雑による系統推定なるものは、分子時計をクラスとみなしている点で誤っています(p.235)。



歴史推論における形質の重みづけには、「複雑性」(complexity)の基準を採用すべきです(p.240)。その基準は、収斂の確率の低さを査定します。そして、進化学における「法則」をベースにした歴史推定をめざすべきであるとギセリンは言います(p.243)。しかし、私には、この部分の議論は説得的であるとは思えませんでした。



第16章は、個体発生と系統発生の関係についての議論です。形態発生プログラムに関わる形質を系統樹の上にプロットしようというメッセージが関心を引きました。第17章は、大進化の議論。定向進化説・断続平衡説・種淘汰(ギセリンは同意)などなど。最後の第18章では、個物説に基づく新たな「学問分類」を提唱します。

すでに、「概念的満腹状態」に達しているのですが、とどめは「付録」(pp.301-308)。本文に登場した概念・定義がアフォリズムの形式でまとめられていて、たいへん重宝?します。本文から突き落とされた読者もきっとこの「警句集」はエンジョイできるでしょう。





本書全体をふりかえってみて、説明の「濃さ」にかなりのばらつきがあると私は感じました。もともと、進化生物学の「概念世界」をメタのレベルで論じるという難しい作業に取り組んだ本ですから無理もないことでしょうが、それにしても1回通し読みした程度ではとても消化できません。機会を見つけてはアフォリズムから逆読みする必要があると痛感しました。



本書はグループで輪読できるタイプの本ではありません(断言)。読むなら一人しずかにひもといてください。そういう本もあるのです。



三中信宏(2013年12月21日加筆修正)