『物語と歴史』

ヘイドン・ホワイト[海老根宏・原田大介訳]
(2001年12月10日刊行,トランスアート市谷分室[《リキエスタ》の会・第2期],東京, 105 pp., 本体価格1,500円, ISBN:4887521324目次

原書:W. J. T. ミッチェル編『物語について』(1987年刊行,平凡社, 東京).ワタクシの手元にある唯一のヘイドン・ホワイト訳本だが,きっと今はもう入手できないんだろうなあ.

【書評】※Copyright 2003, 2017 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



「歴史が物語(ナラティヴ)である」と主張してきた歴史家ヘイドン・ホワイトの論考とそれに対する批判ならびに反論を集めた論集である.彼の主著『Metahistory』(1973)の翻訳が遅れている現状では,本書は適切な入門書の役割を果たすのではないか.



ターゲット論文を書いたホワイトは,冒頭の章において,歴史の物語には語り手が必要であると強調しつつ,「現実の出来事が語る,自ら語るなどということは起きえよう筈がないのである.現実の出来事は,黙って存在さえしていればそれで足りるのだ」(p.13)と言う.そして,物語が果たす役割については,「もし,語りと物語性とを,架空の事柄と現実の事柄とを一つの叙述の中で出会わせ,結びつけ,あるいは溶けあわせる手段であると考えるならば,物語の魅力と,物語を拒絶する根拠とを同時に理解できるだろう」(pp.14-15)とあえて反論を煽る.



確かに,この論点こそ批判者がもっとも問題とする点なのだろう――批判者の筆頭とみなされるカルロ・ギンズブルグは『歴史を逆なでに読む』(2003年,みすず書房)の中でずばり指摘する:


今日,歴史叙述には(どんな歴史叙述にも程度の差こそあれ)物語的な次元が含まれているということが強調されるとき,そこには,フィクションとヒストリー,空想的な物語と真実を語っているのだと称している物語とのいっさいの区別を,事実上廃止してしまおうとする相対主義的な態度がともなっている.(p.42)



ホワイトは「われわれは生まれつき物語る衝動を持ち,現実に起きた事件の様子を述べようとすれば,物語以外の形式はとりえないほどなのだ」(p.9)と言う.しかし,そういう“衝動”は,歴史学における事実と仮説の区別,対立する仮説群に対する経験的な支持の程度のちがいなど,歴史に関わる復元や推定の経験的基盤をないがしろにする論拠にはならないだろう.



とりわけ,ホワイトが主張するような歴史叙述様式のタイプ分け(年表/年代記/歴史プロパー)の意味づけをめぐっては,本論集の批判者たちが問題提起をしている.ホワイトの見解では,年表(annals)と年代記(chronicles)は物語性が欠如ないし希薄であるため,物語に基づく歴史プロパー(history proper)とは“別種”の叙述形式である.それに対して,批判者はいずれもそのような差別化は根拠がないばかりか狭量でさえあると批判している.



上記:カルロ・ギンズブルグ[上村忠男訳]『歴史を逆なでに読む』(2003年10月24日,みすず書房,305 pp., 本体価格3,600円, ISBN:4622070642書評版元ページ),あるいは:カルロ・ギンズブルグ[上村忠男訳]『歴史・レトリック・立証』(2001年4月16日,みすず書房,212 pp., 本体価格2,800円, ISBN:462203090X書評版元ページ)と併せて読むと,歴史科学における叙述をめぐる両人のスタンスのちがい,ひいては歴史叙述をめぐる論議の闘わされ方がより鮮明になるだろう.



《リキエスタ》の会による復刻企画は,これまで入手困難だったいい本をいくつも出していて大歓迎だが,宣伝力がちと弱いのではないだろうか.本書に関しては,原書のスキャンがうまくいかなかったのか,かすれて読みにくい箇所が散見される.



三中信宏(2003年12月1日|2017年3月11日加筆)