『蔵書一代:なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか』

紀田順一郎
(2017年7月14日刊行,松籟社,京都, 206 pp., 本体価格1,800円, ISBN:9784879843579目次版元ページ

「序章:〈永訣の朝〉」と続く「第I章:文化的変容と個人蔵書の受難」は著者の個人蔵書がたどった道.他人事ならず.「第II章:日本人の蔵書志向」は,日本の公設図書館と個人蔵書そして古書業界との関わりを論じる一般論.

  • 「一口にいえば,こうした書物へのリスペクト(尊敬の念,愛着の心)が,高度成長にともなう経済効率の高いマルチメディア……の影響により,無限に喪失しつつある」(p. 98).
  • 「蔵書史の上から指摘すべきは,“蔵書マインド(精神,気質,心)”の著しい低下という,大きな歴史的変化である」(p. 99)— この辺の箇所で,著者がよくない “精神論” に落とし込もうという姿勢が見られ,イマイチ首肯しかねる.
  • 「書物に即して知識を得たいという読書マインドと,書物を大切にし,手元に置きたいという愛書マインドとが人生の一定期間内に醸成され,はじめて書物を守り,空白があれば埋めていくというような蔵書マインドが形成されるのではないだろうか」(p. 99)— もっと実質的な理由を出さないと.

「第III章:蔵書を守った人々」— 近代の蔵書家列伝.江戸川乱歩はすごいなあ.そして,最終章「第IV章:蔵書維持の困難性」は考えるべき点が多々ある.日本の公設図書館の不備を補う役割を担った個人蔵書は,今の社会・経済状況のもとでは,いずれ散逸してしまうのはほとんど不可避の宿命であると著者は悲観的に結論する.ワタクシ的にはそれはそれでいいんじゃないかと思うが.個人蔵書はしょせんは “利己的” な活動にすぎないのだから,むりやり “利他的(=公益的)” な理由づけをしてもしかたがないということだ.一時的に形をなした個人蔵書が一代限りで散逸しても,回り回ってまた後代の別の個人蔵書にきっと入るだろうから,あまり気にする必要はないとワタクシは考える.いったん散逸しても,必要だと思い立った人がまた一から蒐書し直せばいい.ほんの30〜40年の時間とそれなりの手間とお金をかければ,まとまった蒐書はできるだろうから.

ワタクシがいま書いている本でも雑誌論文などと並んで古今いろいろな「本」を引用・参照しているが,文献リストをつくりながら「ああ,この本は日本だときっとワタクシしかもってないよなぁ」とつぶやくことが少なくない.でも,文献は手元になければないでそれだけのことだから深く気にしてもしかたがない.

そんなわけで,本書は稀代の蔵書家の興味深い自伝であると同時に,個人蔵書を抱えこんでいる人にとっては必読の本かもしれない.ただし,一般論の部分は少なくともワタクシはあまり同意できなかった.