『驚異と怪異:想像界の生きものたち』書評

国立民族学博物館(監修)・山中由里子(編)(2019年8月29日刊行,河出書房新社,東京, 239 pp., 本体価格2,700円, ISBN:9784309227818目次版元ページ

読了.古今東西のさまざまな “妖しいモノ” たちが所狭しと陳列されていて,この本がまさに驚異の部屋としての「ヴンダーカマー」を構成している.展示物の図版を眺めるのはもちろん楽しい体験だが,寄稿されているエッセイもおもしろい.コラム17:三尾稔「半人半獣のヴィシュヌ化身像」では,ヒンドゥー教最高神のひとりであるヴィシュヌと魔王ヒラニヤカシプの闘いについてこう書かれている:

「無敵の体となったことを確信したヒラニヤカシプは抗う人びとや神々を打ち倒し,遂に傲慢にも彼の世すべてを支配しようとする.まさにそのとき,ヴィシュヌ神はナラシンハ,つまり人でも神でも獣でもあるものとして姿をあらわし,昼と夜の境目である黄昏どきに,建物のなかと外の境目となるヒラニヤカシプの宮殿の入口で,空中でも地面でもない自らの膝の上で,武器を使わず素手で切り裂いてヒラニヤカシプを殺してしまう」(p. 127)

「ヒラニヤカシプは世界のすべての事物や時空間を分類し,そのどれにも負けない存在になることによって世界を支配しようとした.しかし,どんな分類や区別にも,それになじむことのない境目や曖昧なものがつきまとう.ヴィシュヌ神はその境界に宿り,慢心する魔王をあざ笑うかのように彼を討伐したのである」(p. 127)

光と影の境目である “罔両” はオニが憑いて妖怪化すれば “魍魎” となる.日本にかぎらずインドでも “罔両” に潜むヴィシュヌ神が “魍魎” だったことは意外や意外の感があるが,深く納得できる.万物を分けることができるとみなす分類学にとって “分類不能” な存在はいつでも災厄のもとだからだ.

フェルナンド・ペソア著(高橋都彦訳)『不安の書』(2007年1月31日刊行,新思索社ISBN:4783511969)には,「物事を分類し,分類することだけが科学だと心得ている科学的な人は一般に,分類できることが無限にあり,したがって分類しきれないということを知らない」と書かれている.

また,ジョルジュ・ペレック阪上脩訳]『考える/分類する〈日常生活の社会学』(2000年2月1日刊行,法政大学出版局[りぶらりあ選書],東京,vi+143pp.,本体価格1,800円,ISBN:4588022024目次)には,分類をめぐる警句が記されている:

「一つの規則によって,全世界を分類するというのは,じつに人をひきつけることであり,一つの全般的法則が現象全体を規定することになる.北半球と南半球,五大陸,男性と女性,動物と植物,単数と複数,右と左,四季,五感,六母音,七日,十二ヶ月,二十六文字.残念ながら,そんな分類は,うまくいかない.かつてうまくいったためしがないし,今後もうまくいかないだろう.そうはいっても,なおこれからも人びとは,これごれの動物が奇数の指の数や中空の角をもっているということで,分類するということを長く続けるだろう」(p. 120)

ヴンダーカマーには分類をめぐる人間の本性が見え隠れする.分類できる安心と分類できない不安は表裏一体であり,「分類のめまい」(ペレック, op. cit., p. 125)は分類者たる人間を悩ませ続ける.