『「誤読」の哲学:ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』

山内志朗

(2013年12月13日刊行,青土社,東京,329+xii pp., 本体価格2,800円,ISBN:9784791767434版元ページ

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まずは,2013年12月19日(木)19:30 〜@ジュンク堂書店池袋本店で開催された「山内志朗『「誤読」の哲学――ドゥルーズフーコーから中世哲学へ』刊行記念『「誤読」する哲学と(の)進化論』山内志朗×三中信宏」から.当日午後7時前に駒場から池袋へ移動.一日中降り続いていた雨足は夜になってさらに強まる.濡れ濡れて東口のジュンク堂書店の4Fトーク会場にたどり着き,山内志朗さんをはじめ,青土社ジュンク堂書店のみなさんにまずはご挨拶.この日のトークショー参加者は40名ほどになったのこと.会場は時間前からどんどん席が埋まり始める.定刻19:30からトーク開始.まず山内さんから新著の簡単な紹介があり,その後,対談しながらあっという間に時は過ぎていった.ふと気がつけば一時間以上もふたりで話をしたことになる.最後にフロアからの質問を受け,予定通り午後9時に終了.



この日の対談では,生物体系学が抱える「分類体系」や「種」あるいは「高次分類群」などの概念が中世形而上学とどのようにつながってくのかをめぐってとてもおもしろい展開になった.Michael T. Ghiselin の「プロセス形而上学」に関心をもつ山内志朗さんは,Ghiselin の考えは新プラトン学派のアヴィセンナ[イヴン・シーナ]の思想に近いものがあるのではないかと示唆した.時間的に変わり得る実体が果たす機能を重視するという点で両者には親和性があるということらしい.日頃からこういう “形而上学的暗黒” を覗きこんでいる身としては,その筋の専門家とこういう場で話ができるだけでもシアワセということだ.いずれにしても,種や分類群をめぐる存在論的問題は,確かにスコラ哲学者たちが何世紀にもわたって議論し続けた形而上学の知的伝統に連なる末裔で,この点では逃げ場はもはやないという実感をもった.分類学者は,生きて帰れるかどうかは別にして,とにかく中世哲学の “黄泉の国” に詣でる必要があるという確信である.



さて,この夜のターゲット本:山内志朗「誤読」の哲学:ドゥルーズフーコーから中世哲学へ』に移ろう.山内センセ,お遍路さんのごとく,中世哲学者たちの墓標に線香を手向ける.本書の最初の数章は,ドゥルーズフーコーら現代フランスの思想家たちが中世哲学をどのように「誤読」してきたかが述べられている.フランス現代思想はイマイチなワタクシにはそのまま拝聴するしかなかった.しかし,それ以降は戻るあてもなく中世哲学の深みと暗闇にどんどん沈み込んでいった.ずぶずぶ.



読了してみれば,八幡の藪知らずに大蛇が何匹も潜んでいてコワいんですけど…….たとえば,こんなくだりがある:


普遍はどこにあるのか,という問いもそれと或る程度似ている.本来の意味での普遍は,概念としてあるが,概念としてしか存在しないわけではない.事物の中に現れるのである.言葉の中にもある.ほぼ同じことが対象・オブジェクトについても言える.知性の中にあるものでも知性の外にあるものでもない.知性の外に現れるものだ.(p. 163)



本書のキーワードのひとつである「対象的概念」に関わるこのような指摘を前にすると,生物学の「種問題」が絡め取られている「実在論 vs. 唯名論」という土俵そのものが崩れ始め,その隙間から魑魅魍魎がゆらゆらと立ち上がり,その背後に立ち並ぶ墓標の下から中世形而上学のつぶやきが読経のように流れ出てくる.中世哲学コワすぎる.



ワタクシが農水省に入ってすぐのころに読んだ:稲垣良典抽象と直観:中世後期認識理論の研究』(1990年2月25日刊行,創文社,東京,viii+343+13 pp., ISBN:4423100851版元ページ)とか清水哲朗『オッカムの言語哲学』(1990年5月30日刊行,勁草書房,東京,iv+309+14 pp., ISBN:4326100850版元ページ)はそんなにコワくなかったけど,あれは単に千年熟成された魑魅魍魎や背後霊が “見えてなかった” だけなのかも.対談後の打ち上げで,山内センセは中世哲学者との付き合いは「霊場恐山のイタコが “口寄せ” するようなものです」と言っていた.彼らのテクストを読んでいるうちに “降霊する” らしい.コワすぎる.良い子の科学者は興味半分でうかつに近寄ってはいけません.



本書にはクリアな結論があるわけではない.お遍路旅はまだ終わってはいないとのことだ.



三中信宏(2013年12月20日