『Unto Others : The Evolution and Psychology of Unselfish Behavior』E. Sober & D.S. Wilson

(1998年刊行,Harvard University Press, isbn:0674930460

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【書評】※Copyright 2005 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

現代の群淘汰説(複数レベル淘汰説)の強力な推進者である David Sloan Wilson が、生物学哲学者である Elliott Sober とともに、群淘汰理論の本を出版したので、以下に紹介します。「Unto others」 - "unto"って何? 小さい辞書には「〜まで」という意味しか載っていません。しかし、OEDを調べるとかなり下の方に「〜の利益のために」という意味が載っています。「他者のために」−自らを犠牲にして他者のために行動するその進化的背景と心理的動機の解明が本書の中心テーマです。

以前(1996年)、私が『過去を復元する』(蒼樹書房)を翻訳したおり、著者である Sober 教授から「いま D.S. Wilson と"Altruism"という共著の本を書いているところだ」と教えられました。それが上記の本です。本書では、利他性(altruism)が生物界になぜ生じたかを進化学的に説明する理論としての群淘汰説を擁護するとともに、ヒトがなぜ利他的な行動をとるのかを心理学的に解析しようとします。群淘汰的説明の妥当性をめぐっては、現在もなお進化生物学の論議の火種を提供しています。

Sober & Wilson の本書では、繰り返し「なぜ群淘汰説がこれまで受容されてこなかったのかは、科学論・生物学史的な解明を待つ興味深いトピックである」と指摘されています。同様に、日本の生物学界での群淘汰説の受容の過程は、それ自体おもしろい問題を提供するでしょう。

 本書は、内容的に「第1部」(進化的利他行動)と「第2部」(心理的利他行動)で大きく分かれます。第1部は、利他行動の進化的起源の複数レベル淘汰理論(multilevel selection theory)に基づく説明です。続く、第2部は、利他行動の心理的な動機づけ(motivation)の究明に当てられています。本書の最後で、利他行動の進化と心理を結び付ける努力がなされています。しかし、読み進む上では、この2つの「部」からはかなり異なった読後感を私は受けました。特に、私にとっては、背景知識のない利他行動の「心理学的学説」を延々と述べる第2部はなかなかつらかった...。きっと、心理学に通じている人間進化学の研究者は、この第2部に関して私とはまた別の印象をもつと思います。本書のキーワードは、利他行動(altruism)とそれに対する利己行動(egoism)とりわけ快楽行動(hedonism)です。これらの行動とその進化的・心理的背景をさまざまな視点から比較することが本書の骨格です。



まずは、第1部から。群淘汰学説(group selection theory)の起源とその後の論争の経緯。チャールズ・ダーウィンの群淘汰説から始まって、1960年代の群淘汰批判、そして1970年代の「復活」にいたるまでの道のり。著者が二人とも群淘汰を支持してきたことから、その論調は当然予想される通りです。「本書の目的の一つは、群淘汰説に対する支持・反対の論拠を詳述することにより、読者自身の判断に委ねることである」(p.7)と書かれてあるように、群淘汰に関してはかなりの自信をもって筆を進めます。複数レベル淘汰理論として復活した群淘汰理論について、著者らは「よいニュースと悪いニュースがある」(p.10)と指摘します。よいニュースとは、本書において群淘汰説がはじめて「群レベル機能論」(group-level functionalism)の頑健理論として構築できたことです。一方の悪いニュースとは、これまでの支持者が思い描いていたような、壮大な群淘汰理論はないという点です。ここでいう機能論とは「自然淘汰がある機能的単位に作用する」という考え方です。これまでは、個体レベル機能論(individual-level functionalism)にウェイトが置かれていたが、群レベル機能論にも適切な関心を払おうというのが著者の趣旨です。もう一つ、アンチ機能論(anti-functionalism)という選択肢、すなわち自然淘汰には個体レベルであれ群レベルであれ機能的体制を説明する能力はないという考え方(p.11)に対しては、本書の末尾で「ノー」と断言します(pp.336-7)。

 第1章では、利他行動の進化モデルを概観します。この部分では(第1部全体を通じていえることですが)「ボックス」が多用され、きわめて教育的な書き方がなされています。利他行動による適応度の低下を説明した後、利他行動は複数群を含むメタ個体群構造がある場合には、利他行動者は群内では適応度が低くても、群間では適応度が高いという事実が指摘されます。これが、「シンプソンのパラドクス」(p.23)として知られている現象です。各群のサイズが異なり、全体に対する寄与が異なる場合には、一見奇妙なこういう現象がみられます。著者らは、このシンプソンのパラドクスを無視して、群間で無理に平均をとることが大きな間違いであると主張し、これを「平均化の誤謬」(the averaging fallacy:pp.31ff.)と名付けます。群淘汰はたとえあったとしても重要な要因ではないという、これまで返されてきた反論はすべて平均化の誤謬をくり返し犯してきたからであるという主張は、非常に説得的です。要するに、平均してしまえば、群間のちがいは均されてしまい、すべては個体レベルの説明に帰着できてしまう−しかし、それは因果過程として作用する淘汰の力関係を見えなくしているだけである。このあたりはきわめて論旨明快で、Elliott Sober の"The nature of selection" (1984, The MIT Press)の続編を読んでいる心地がします。群淘汰論争に最終的決着をつけるには、シンプソンのパラドクスの存在に気付き、平均化の誤謬に陥らないように用心すればよい(p.34)。ではなぜ、群淘汰論争に関わった研究者には「それ」が見えなかったのか−著者たちは、個体レベル淘汰にバイアスがかかった科学社会学的な要因がそこにあったからだと指摘します(p.52)。

 第2章では、利他的社会行動を従来説明してきた、包括適応度・相互利他行動・利己的遺伝子の3理論を概観します。W.D. Hamilton, G. Price, J. Maynard Smith ら、関係する研究者の議論をふりかえりつつ、著者たちはそれらの理論と群淘汰理論との間には結局「視点の違いしかない」(p.92)と言います。群を「互いの適応度に影響しあう個体の集合」(p.92)と定義するならば、いままでの理論は群淘汰説とまったく矛盾しないと著者たちは結論します。本書における「群」とは相互作用の「集合」のようなものであると私は考えます。D.S. Wilson の「trait-group」がその代表的定義として挙げてあるように(pp.94-8)、この群は明瞭な境界を持たず(p.94)、形質ごとに定義されます(p.96)。さらに、後の章では、本書における「群」が同種個体のみならず他種個体をも含み得る(pp.118-9)と一般化され、他種群集の進化の説明に登場します。これまでの群淘汰批判は、群淘汰説が「異なる進化プロセス」を要求するものと誤解してきたが、実はそれは「異なる視点」を要求しているのだというのが彼らの反論です。視点の複線化を容認することは、認識論的な「多元論」(pluralism)の容認を許します。そう、著者たちは、確かに多元論を掲げます(p.99)。しかし、彼らが言うのは「何でもオーケー」の多元論ではありません。理論間の統一を目指す多元論を求めています。自然界が単位の階層から成ること、したがって自然淘汰もまた階層ごとに作用することが複数レベル淘汰説の前提です(p.100)。続く章では、この複数レベル淘汰理論の解説に進みます。

Sober の著書 "The nature of selection"(上述)を読んだ人であれば、自然淘汰が「力」(force)の理論であり、したがってそれらの「力」が何に対して作用したか−すなわち"selection for"−が重要であり、それを結果として何が淘汰されたか−すなわち"selection of"−の議論と混同してはいけないという警句を記憶しているでしょう。本章では、進化プロセスとしての「力」の理論の観点から、複数レベル淘汰説を解説します。適応仮説は自然淘汰が作用したことが証明されてはじめて検証できる(p.102)。とすると、適応という仮定が必要ないときに必要であると言うことも、また反対に、必要あるときにないと強弁することもできません。複数レベル淘汰理論にとって重要なことは、淘汰(selection for)のレベルをいかにして適切に仮定できるかにかかっています。著者たちはこの作業を段階的に構築します。ある形質(trait)の進化を考えるとき、まずはじめに群淘汰のみで説明しようとします。次に、その現象を個体淘汰のみで説明します。複数レベル淘汰説はこの2つの進化的力の「内分点」(p..104)として決定できるので、レベルごとに次の淘汰構成成分を解析する必要があります:1)表現型変動のパターン;2)遺伝率;3)適応度(pp.103-116)。内分点に立って見ることで、いずれかの端点から見ただけでは解明されないことが浮き彫りにされる(p.118)と著者らは主張します。著者らは、この複数レベル淘汰理論の実用性をいくつかの例を通じて説明するわけですが、とりわけ印象的なのは養鶏業への産業的応用の事例です(pp.121-3)。群淘汰を養鶏に適用したことにより、鶏卵の生産量が6世代で160%もアップしたケースが報告されているとのこと。

さて、群淘汰説に対しては、George C. Williams の古典 "Adaptation andnatural selection"(1966, Princeton Univ. Pr.:数年前に復刻された)の中で(pp.19, 124)、群レベルの淘汰を想定することは「非最節約的」であるという有名な反論があります。この最節約主義に対しては、データも見ないでアプリオリに群淘汰を拒否する論拠はどこにもない(p.126)と一言のもとに却下されます(さすが!:Sober の前掲書にはもっと詳しく書かれている)。経験的論拠のもとに複数レベル淘汰が説明上必要であるならば、積極的にそれを認めようということです。適応仮説は「取扱注意」であることを著者たちはくり返し強調します(p.130)。そして、群淘汰に関して、G.C. Williamsが「ないのにあると言うなかれ」と主張したのに対し、本書は「あるのにないと言うなかれ」と切り返します。たいへん刺激的でしかもおもしろい章です。

第4章では、複数レベル淘汰理論をヒトの行動に適用する準備を行ないます。その意味で、第2部への橋渡しを開始したということです。人間社会においては、社会的群(social group)による群淘汰的説明が可能であり、その際、文化的・社会的規範(social norm)のしばりがあれば、たとえ血縁がない群であっても群淘汰は成立し得ると著者らは言います(p.134)。この「同類相互作用」(assortative interactions)に基づく群のもつ進化的意味を文化淘汰(cultural selection)と絡めて議論します。文化進化の理論においても「平均化の誤謬」(前述)が広く見られると指摘されます(p.157)。そして、血縁淘汰よりも、複数レベル淘汰の方が幅広い視点を与えるとのこと。人間進化学における複数レベル淘汰理論の具体的適用は次章にまわされます。

M. Daly and M. Wilson (1988)の "Homicide" (Aldine de Gruyter) は、さまざまな民族における殺人のデータを踏まえて、ヒトにおける殺人行動の進化的解析をしました。そのときのデータベースとなったのが、HRAF(the Human Relations AreaFiles)です。本章では、同じくこのHRAFからの無作為サンプルをデータとして複数レベル淘汰理論に基づく人間行動進化仮説の検証を行ないます(p.160)。本書では、従来の仮定とは異なり、ヒト社会においては血縁よりも社会的規範の方が大きな力をもっていると考えます(pp.165-6)。そして、HRAFからの無作為サンプルの解析からは、社会的規範の強さが示唆されると著者らは結論します(p.183)。このことが、複数レベル淘汰説の人間進化への適用の論拠となっており、「人間進化がもたらした行動の多くは群の利益のためである」(p.194)という第1部の結びの文につながります。人間行動学や人間進化学の研究者がこの章をどのように読むのかはたいへん興味があります。



本書の後半の第2部では、第1部の究極的進化要因の議論をいったん離れ、至近的心理要因の解明に考察の場を移します。つまり、いかなる心理的動機(motivation)がヒトに利他的行動を取らせるのか、その説明を試みようということです。第6章では,進化的観点からは、自然淘汰(selection for)の結果、心理的至近要因が生じ、ある行動が引き起こされると説明されます(p.200)。一方、心理学的には、心理そのものが究極因であり、その結果としてより至近的("instrumental")な願望が生じると説明します(p.201)。この両者は決して矛盾するわけではありませんが、心理的な利己行動/利他行動と進化的な利己行動/利他行動とは必ずしも一致しません(pp.202-5)。したがって、ある行動の動機(motivation)を解釈するときには、心理的と進化的な視点のちがいを理解する必要があります。心理的な動機とは信念と願望です(pp.208ff.)。信念と願望はモジュールを共有しており、別々に分離することはできません(pp.210-1)。
続く第7章では,ある行動を生む心理的動機を説明する3つの理論−快楽行動(hedonism)・利己行動(egoism)・利他行動(altruism)−の説明能力を比較した上で、著者らはそれらの「内分点」としての多元論を展開します。快楽行動とは、利己行動の一種であり、いずれも一元的な説明仮説であるのに対し、利己行動は他とは相容れない多元的な説明仮説であることが指摘されます(p.228)。以下、感情移入(empathy)と同情(sympathy)に関する議論が延々と続きます(つらい...)。利己行動と利他行動を自分と他者の受ける利得によって比較する部分は興味深いです(pp.242-250)。そこでは、純粋な利己行動者とそれに対する純粋な利他行動者の内分点として多元的利他行動者が位置付けられています。第8章は,前章の議論を受けます。ヒトは心理的利他主義者なのかそれとも利己主義者なのかという論争は、従来のデータだけでは解決できません。本章では、この問題を解決するための3つの心理学的研究方法を検討します:1)内省的方法(pp.252ff.):心理の内省を通した分析。歴史的に近代心理学は「内省法」を捨てることから始まった。行動主義はその対極的なメソッドである。しかし、内省法は信頼できるところもあると著者らは評価します(p.253);2)因果関係の究明(pp.256ff.):行動の条件づけを通した実験研究;3)社会心理学的実験(pp.260ff.)。いろいろコメントしたいところですが、悲しいかな心理学の知識がないので、書かれてあることがよく理解できませんでした(ごめん)。第9章でも,利己主義/利他主義論争の議論がさらに続きます。本章は哲学の議論です。やっぱり私にはフォローできない内容が多いのですが(T_T)、後半になって多元説と一元説は理論としては同等である(p.290)というくだりから、また大脳が働き出しました。最節約原理によって一元説(ここでは利己主義)の方が多元説(ここでは利他主義)よりもすぐれているという主張に対して、著者らは2つの反論を出します(pp..291ff.)。はじめに、最節約性の規準に対してです。動機の説明理論の最節約性を究極的動機の個数によって算定することに著者らは反対します。至近的願望まで数えれば、利己主義と利他主義の最節約性は同等である点が指摘されます(p.292)。次に、説としての妥当性を挙げます。最節約的であるからといって必ずしも妥当であるとはかぎらない、むしろ進化的な観点からその説が妥当であるかどうかを検討すべきであると著者らは主張します(pp.294-5)。心理学と哲学だけではこの論争は決着しない、進化的な視点が必要である−この主張とともに最終章が開かれます。

第10章では、多元的利他主義と利己主義の部分集合である快楽主義とを対置させながら、心理的利他主義の進化的起源を議論します。ある形質の進化可能性を構成する3要素(availability, reliability ならびに efficiency)に注目したとき、多元的利他行動(タイプ1とタイプ2)は reliability の点で快楽行動にまさる(p.319)だけでなく、availability と efficiency の点でも問題なしと著者らは主張します(pp.321-3)。進化的により妥当である理論は多元的動機説であるという結論が導かれます(p..324)。

結論は多元主義(pluralism):「多元主義」−本書の結論として出てきたこの考えについて、著者らはもう一度まとめます。階層的多元論はともすれば「全体論」(holism)に接近してしまいますが、そういうものとは無縁であるとまず釘を差されます(p.329)。本書は、現代進化生物学の根底にある「方法論的個体主義」(methodological individualism)の発露であると指摘します。同意同意。この観点からみたとき、群淘汰説は決して死んではいない。多元論は視点の多元性とプロセスの多元性を同時に意味します。このとき、複数レベル淘汰理論は、従来の個体レベル機能論、群レベル機能論、そしてアンチ機能論をも統一する理論を目指していると著者らは言います(p.331)。進化学的な多元論は複数の進化プロセスを同時に考える立場であり、心理学的な多元論とは複数の心的動機を同時に考える立場です。本書はその全体を通じて「合理的な多元論の出現」(p.337)を目指したといえるでしょう。



本書を読み終えた感想を一言でまとめると:「群淘汰論争はこれで「根本的」に決着がついたのか?」と要約できます。確かに、本書はその明快な文体と内容で(第2部に関しては私には断言できませんが)、かなりの説得力をもっているように思われます。多くの読者が楽しめる内容だと私は思います。たとえ複数レベル淘汰理論をまったく知らなくても、読んでしまえるところは著者らの文章のおかげです。一方で、複数レベル淘汰理論は従来理論とは異なるパラダイム(「ものの見方」)であると宣言したことは、群淘汰論争をパラダイム論争に移行させたという意味があります。それは群淘汰論争がこれからも「無期限」に続くかもしれない可能性を含んでいます。その点は、少しだけ疲れを感じました。

三中信宏(18/January/2005)