『定刻発車:日本社会に刷り込まれた鉄道のリズム』

三戸祐子

(2001年2月3日刊行,交通新聞社ISBN:4330683016

【書評】※Copyright 2005 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



あのような大きな列車事故追記:2005年4月25日に起こったJR福知山線脱線事故]が起こってしまったいま,おそらくもっともタイムリーな読書だろう.ぼくはハードカバー版をもっているが,このたび文庫にも入ったということなので(2005年5月新刊,新潮文庫ISBN:4101183414),しばらくの間は書店店頭のよく目立つ平台に並べられるのではないだろうか.



日本の鉄道運転技術の正確さ(とそれを支える上から下まで一貫したシステム)は“すごい”のひとことに尽きる.とくに,第4章「驚異の運転技術」に引用されている旧国鉄運転士の証言は,単に機械的なテクニックだけではない,国鉄家相伝のワザの伝承をうかがわせる:

「運転区間は東京〜新大阪間で,停車駅の名古屋・京都・新大阪はプラスマイナス五秒以内,停車位置はプラスマイナス一センチ以内の許容しかなかった」……「一見したところ大変きびしいようであるが,運転士はつねに速度・時間・次駅までの距離を計算しながら運転しているので,通常でも特別な事情がない限り,誰でもほぼこの範囲内で運転している」(p. 119)

さらに印象に残るくだりがある:

運転士になるためには,運転理論の習得や,微妙なブレーキ扱いの修得など,越えなければならない大きなハードルもあるが,新人の育成にあたる研修センターによれば,脱落者は四百人に一人程度と稀である.そこでは「一秒違わぬ」運転を目指して“地獄の訓練”をしているのでも,“スパルタ教育”をしているのでもない.先輩から後輩へと,誰もが当たり前のように,精緻な運転技術を身に付けてゆくのだ.(p. 128)

単に「上から命令された正確さ」ではなく,かつての工場生産ラインにおける〈QC運動〉を髣髴させる「下からの自発的な改善」による運転技術の加速度的向上と維持が保たれていたということだろう.本書に記録されている数々の伝説的エピソードは世界的に見て驚異的な運転技術が日本ではごく当然の日常的風景であったこと,そして社会一般がそれを当然のものと期待していたことを再認識させる.



本書の後半では,日本の鉄道に特有の正確無比な技術がどのように培われていったのかがしだいに明らかになっていく.要するに,より正確であれと社会が求めているからこそ,それに応える技術なりシステムが造りあげられたのだ:

運転士も,車掌も,駅員も,保線員も,非現業部門の社員も,乗客も,代替輸送機関も,マスコミも日本中が一丸となって得られた定時運転である.(p. 252)

ここまで書かれるといささか「予定調和」的に解釈しすぎかとも感じられるが,著者の言わんとする意図はよく理解できる.

何もそこまでやらなくても,と思うかもしれないが,そこまでやるのが日本の鉄道だ.(p. 216)

何の抵抗もなく“すとん”と納得できる.そして,次のくだりは本書の要約だ −−

この国民にして,この鉄道.(p. 160)

もしそうだとすると,今回のような事故を契機として鉄道のあり方について考えるときには,必然的にその矛先は「鉄道会社」だけでなく「利用者本人」にも向けられるということになるのだろう.事故以来の新聞報道が事故原因やその対策という実質的に重要な案件ではなく,どう考えても瑣末的なこと(宴会をしたかしなかったか等々)をほじくり出しているのは,社会一般にとって「鉄道」が企業活動のひとつとして第三者的にとらえられているのではなく,むしろ“家庭内”の身内のしでかした事件のように感じられているからなのではないか.あの事故の遠因はひょっとしたら“自分”にあったのかもという意識の攻撃的反動がJR西日本に向けられていると考えるのはきっと過剰解釈ではないと思う.



三中信宏(2005年5月8日/2014年1月4日追記

【目次】
序 鉄道は正確で当たり前? 6

I 環境

第1章 正確さの起源 18
第2章 定時運転の誕生と進化 57
第3章 鉄道が正確でなければ成り立たない都市 85

II 仕組み

第4章 驚異の運転技術 114
第5章 撹乱要因との闘い 135
第6章 巨大システムのマジック 164
第7章 列車群の生態 183
第8章 よいダイヤは遅れない 194
第9章 「ダイヤの回復力」を設計する 218
第10章 システムの運転台 235

III 正確さを超えて

第11章 日本の鉄道はこれからも正確か? 256
第12章 成熟社会の夢 276

あとがきと謝辞 318
参考文献 327