『一六世紀文化革命(1・2)』

山本義隆

(2007年4月16日刊行, みすず書房ISBN:9784622072867(1) / ISBN:9784622072874(2) → 目次(1)目次(2)版元ページ(1)版元ページ(2)



【書評】

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序章「全体の展望」では,本書全体を貫く視点を読者に呈示する.それは,“17世紀科学革命”の前夜である“16世紀”に光を当てるということなのだが,具体的にはこの時代に特徴的な「手仕事に対する蔑視」(p. 12)を当時の画家や医者や博物学者たちがどのように乗り越えてきたのかを個別に論じるということだ.著者はそれを「文書偏重の学から経験重視の知への転換」(p. 16)とみなす.定量化や視覚化という新たな精神が育ったのもこの時期だという.使用される言語や活字印刷術の普及という点も無視できない.これらの変革を「一六世紀文化革命」という仮説のもとに総括することが本書の目標である(p. 29).

続く第1章「芸術家にはじまる」では,15世紀から16世紀にかけての画家たちに目を向ける.当時の画家や職人たちの“手仕事”は社会的には低められた地位に甘んじていたわけだが,その中から透視図法(遠近法)という新たな表現方法が生まれた.それは新しい計測のための術であり,著者はピエロ・デッラ・フランチェスカレオナルド・ダ・ヴィンチそしてアルブレヒト・デューラーなどの著名な画家たちの仕事を通じて,このことを論証していく.彼らが実行した比率や計測に関わる手法とその図像的表現手段は現代の morphometrics の先駆ともいえるわけで,この章に挙げられている事例のひとつひとつはたいへん興味深い.

第2章「外科医の台頭と外科学の発展」は,医者の“手仕事”に議論を移す.ガレノスの“聖典”を越えて,当時の貶められた外科医たちは経験的な医術を積み重ねていった.ドイツのヒエロニムス・ブリュンシュヴィヒやパラケルスス,そしてフランスのアンブロアズ・パレがこの章では取り上げられている.彼らは,ラテン語ではなくドイツ語やフランス語という“俗語”で著作を公刊したという共通点があった.個人的にはパレの「怪物論」に関心があるのだが,言及はされていない.

こんな指摘がある:




スコラ医学が権威とあおぐ古代のガレノスは「個々の病気の本質」を知ることなく医療に従事するものを「経験主義者」と呼んだ.以来,医療の世界で「経験主義者」という言葉が,西欧のどこの国での言葉であれ,もぐりの医者とほとんど同義に使用されることになった.『オクスフォード英語辞典(OED)』の‘empiric’の項には「にせ医者」ないし「やぶ医者」を指す‘a quack doctor’とある.(p. 179)



当時は「経験的である」というスタンスは今日とは正反対の価値を担っていたということだろう.

第3章「解剖学・植物学の図像表現」と第4章「鉱山業・冶金術・試金法」を読む.合わせて130ページほど.第3章では,博物学書における図の重要性が強調される.

ピン留めメモふたつ:1) 写本の伝承過程で文章がしだいに変容していくように,博物学書の図版もまた書写の過程で変容していったと著者は指摘する:




二つとして厳密に同一のものがないだけではなく,複製のたびにすこしずつ変容が加わり,それが積み重なって不正確になっていくという,手写本における図版の宿命的欠陥を,すでにプリニウスは見抜いていたのである.[……]複製により劣化する図像表現と劣化はしないが伝達能力のかぎられている言語表現というブリニウスの指摘したジレンマが解決されたのは,木版画が可動活字による印刷術と組み合わさって木版画による挿図の付いた書籍が作られるようになったときである.(pp. 204-205)



おそらく,写本の本文言語と添付図像はどちらも伝承の過程で生じたミスを受け継ぎつつ“劣化”していったのだろう.

2) 細かいことだが,ウィンザー城に長らく所蔵されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図を調査したのは,ジョン・ハンターの兄のウィリアムだったそうだ(p. 195).このウィンザー手稿は確か岩波書店からものすごく高い価格の付いたリプリントが前に出版されたはずだ.

本章では,文字と図像の力関係に注目して論議されている.総括のことば:




それらの図版はテクスト(本文)を上回る伝達能力を有し,書籍における不可欠な要素の位置を占めているのであるが,それと同時に,言語の精密さや論証の正確さのみを問題とするスコラ的な頭脳労働だけではなく,視覚による伝達の精度を向上させる工房の手仕事・職人仕事の重要性を認めさせるものであった.(p. 242)



ここのところ,いくつかの重要な論点が相互に結びつけられている.注目したい.

続く第4章は冶金の話だが,これは前著:山本義隆磁力と重力の発見』でも詳しく論じられていた内容だ.

上巻最後の第5章「商業数学と一六世紀数学革命」を読む.90ページほど.実用数学としての算術は,他の学問での“手仕事”がそうであったように,16世紀当時は社会的に一段低く見られた知識体系だったそうだ.たとえば,ルカ・パチョリによる『算術大全』は,社会的階層が必ずしも高くない著者がまとめた実用数学の体系書だったとのこと.また,高次方程式の解法をめぐるタルターリアやカルダーノを巻き込んだデュエルあるいは泥仕合もまた,考えようによっては,そのような“算術”が当時のヨーロッパ社会の中で占めていた文化的位置を示唆するものなのだろう.ネーデルラントのシモン・ステヴィンがこの文脈で取り上げられるのは当然のことだろう.

下巻に進む.第6章「軍事革命と機械学・力学の勃興」はタルターリアやシモン・ステヴィンらが主役だ.実用的な技術としての,機械学(静力学)と力学(運動理論)が当時の社会のどのような要請のもとで展開してきたのかを論じる.落体の実験はガリレオに先立ってステヴィンが行なっていたそうだ(p. 406).著者は言う:




天才の世紀たる一七世紀は一六世紀にその助走が始まり,土台の建設が進められていたのである.(p. 406)



本書全体がその「助走」がいかなるものだったのかの解明に当てられている.続く第7章「天文学・地理学と研究の組織化」では,チコ・ブラーエの天文学研究やメルカトールの地図製作を通して,一六世紀の数理技能者(mathematical practitioners : p. 454)の活躍を論じる.そして,かれらの卓越した技術が,軍事や航海,産業など国家の動勢に影響を及ぼすようになるとともに,サイエンスの社会的な位置付けが変わっていったと著者は指摘する:




チコ・ブラーエにフヴェーン島を授けたデンマークの国王も,占星術に囚われていたとはいえ,同時に「科学が国家に威信をもたらし,国の防備を強化することを知悉していた」のである.チコ・ブラーエを生み出してゆく過程は,新しい科学のヘゲモニーが国家ないし知的エリートに移行してゆく過程でもあった.それは職人たちによる一六世紀文化革命の成果が支配階級に属する知的エリートに簒奪されてやく過程でもあった.(p. 503)



上巻ではあまり感じなかったのだが,下巻に進むとしだいに“社会構築論”的な著者の姿勢がしだいに強まってくるようだ.そして,次の第8章「一六世紀後半のイングランド」では,職人技能者による実践的科学技術が“支配階級”に奪われていった典型的なケースとして,十六世紀の英国に目を向ける.

第9章「一六世紀ヨーロッパの言語革命」では,ヨーロッパにおいてそれまで社会的にも学問的にも権威を保ち続けていたラテン語が,“俗語”に取って代わられる過程を本書のテーマと絡めて論じる.ラテン語を操れる社会的階層のみが高い地位を得ていた背景には,「知識はみだりに開示させない」というモットーがあると著者は言う:




このようなヨーロッパの知識層における知の秘匿体質ともいうべきものの根っこは古代にまで遡る.古来ヨーロッパにおいては,神から与えられた真理は不心得者の手に入らぬようにみだりに公にしてはならない,という観念がひろくゆき渡っていた.(p. 571)



初期ルネサンスを代表する知識人ピコ・デラ・ミランドラは,「至高なる神性の秘義を民衆に公にすることは,聖なるものを犬に投げ与えたり,豚の集まるなかに真珠をばらまいたりする以外の何であったでしょうか」(p. 573)とまで言っていた.ところが,16世紀の職人的技能者たちの科学技術の発展は,彼らが日常的に話す“俗語”(フランス語,ドイツ語,英語,オランダ語,イタリア語などを指す)の地位を着実に上げることになった.この「言語革命」が「一六世紀文化革命」と並走していたことに著者は注目する:




地域的な話し言葉であった俗語方言のひとつが他の諸方言を上回る有力言語として規範化され,さらには文法的に整備されて標準化されて「国語」に成長し,それと同時に語彙が豊富化されて込み入った思想表現に耐えるように鋳直され,やがてラテン語使用が絶対的であった領域にまで使用されるようになる過程は,言語革命とも言うべき根底的な変化である.一六世紀文化革命にはこの言語革命が伴っていたのである.(p. 588)



印刷術の普及とともに,言語のシェアの社会的影響力はますます拡大される.16世紀はじめには,ラテン語 vs 俗語の出版比率は6:4だったが,16世紀末にはその比率は完全に逆転して「3:7」になったそうだ(p. 593,図9.3).この言語革命の後押しによって「一七世紀科学革命」が推進されたと著者は言う.

最終章の第10章「一六世紀文化革命と一七世紀科学革命」では,これまでの論議を総括し,16世紀から17世紀への,さらには現代にいたる射程を据える.一六世紀文化革命が知識の世界に与えた大きなインパクトのひとつは,知を秘匿せず,積極的に公開していこうとする姿勢にある:




俗語で執筆した芸術家や外科医や職人や技術者を突き動かしていたのは,伝承されてきた技術だけではなく,研究の成果や実験の結果は公開され社会的に共有され利用されなければならないという思いであった.(p. 661)



しかし,このような“下からの突き上げ”はやがて新しい世代の知的エリート層の出現によってしだいに変質していく.伝統的科学から実践的技術への移行は,17世紀になると再び新しい性格をもった科学への回帰につながっていった:




科学と技術との関係は,一九世紀以降には科学の成果を技術的に応用するという形が通常であるが,一七世紀にはむしろ科学が技術から学ぶ,ないし先行する技術を科学研究にもちいるという形でおこなわれたのである.それは一六世紀に職人や技術者からなされた提起を一七世紀の先進的な知識人たちが受け止めたことに始まる.(p. 686)

一六世紀の段階ではイニシアチブは職人たちの側にあり,技術が先行していた.すくなくとも職人たちにあり,技術が先行していた.すくなくとも職人たちの示した主体性はもっとはっきり認められるベきである.科学者や知識人が職人や技術者の実践を汲み上げたというよりは,職人たちが自分たちの言葉で自分たちの仕事を語ることで,経験知の優位を主張し,自分たちの方法の有効性を学者に訴えたのである.こうして職人たちは,それまで疎外されていた文字文化の世界に越境し,学問世界にかかわっていた.それは「一六世紀文化革命」と称されるに値する知の世界の地殻変動だった.(p. 718)p



しかし,16世紀から17世紀へと時代が移るとともに,知識世界の風景は変わっていった.科学的知識の主導権は再び揺り戻されたからである:




かくして先進的な芸術家や職人や商人や外科医によって推進された一六世紀文化革命は,一七世紀になって,[…中略…]総体として見ればその成果をエリート知識人に引き渡すことによって終焉を迎えることになった.高等教育を受け論証のトレーニングを積んだ知識人たちが経験科学の手法を身につけ,一六世紀に開始された知の世界の変革のヘゲモニーを奪還することによって,科学革命の勝利の進軍が華々しく開始された.(p. 720)



著者は,近代科学の成立に潜む「攻撃性」に着目し,それをどのようにすればいいのかについても議論している(「あとがき」でも述べられている):




近代科学,とりわけ物理学の成功の根拠は,ひとつには人間の感覚を飛躍的に拡大させた観測装置と精巧な測定機器を駆使した実験技術の開発であり,いまひとつはスコラ学の言う「本質」の追究を放棄し,その目的と守備範囲を数学的法則の確定に限定したことにあり,そして第三に,理論と実験を巧妙に結合したことにあった.(p. 707)



著者は,現代科学の「攻撃性」に対抗する手段として,16世紀の技術者たちがもっていた中世的な「自然への畏怖」という観念を再評価しようとする(pp. 713-714).本書の末尾ではこう書かれている:




フランシス・ベーコンのような自然にたいするその攻撃的な姿勢は現在なんらかの歯止めを必要とするレベルにまで到達しているのであって,その歯止めは基本的には自然にたいする畏れに根ざさなければならないからである.(p. 721)





著者の専門は物理学なので,論議のウェイトが物理学に置かれることは自然だろう.しかし,同じ自然科学の中でも性格のちがいは考慮されるべきだろう.無事に「本質」を捨てることができた物理学のような科学もあるが,その一方で「本質」を概念的にひきずったまま現在にいたる生物学のような科学もあるからだ.本書で扱われてきたテーマは生物学にウェイトを置いて論じるとしたら,別の文脈が見えてくるかもしれない.

著者のいう「自然にたいする畏れ」というのは,ヒトとしての現象世界(the phenomenal world)に関する認知的知識体系に関わる.自然誌の世界では,認知的分類体系の枠を越える博物学的知識が流入してきた時点で,ナイーヴな認知カテゴリー化では処理しきれず,分類の方法論に関する論議をせざるを得なくなった.リンネ以後の博物学者たちは,「自然にたいする畏れ」などと言ってはいられなくなったということだろう.増大し続ける情報量のもとで,ヒトとしての素朴な世界認識論をもちだしてもおそらく何の効力ももたないだろう.「自然にたいする畏れ」が効力を持ち得るのは現象世界が十分に狭いときにかぎられるだろうから,そういう世界に戻りましょうという究極の回帰を求めているとしたら話は別だが.

—— ということで,本書全体を通して,科学的知識のヨーロッパ社会の中での「動き」についてはとてもよく理解できるし,「一六世紀文化革命」なるものの果たしたであろう役割についても説得力がある.ただし,現代科学の抱える根本的問題の解決として,「一六世紀文化革命」当時の世界観をもちだすところはいただけない.それ以外の部分についてはとても広汎なスケールをもった議論が書き綴られているのだが,将来への著者のヴィジョンということになると,とたんに「物理学」にしか目を向けていないように感じられる.この落差はきわめて鮮明で,科学を論じることの難しさを逆に感じ取ってしまう.奇矯なコメントではない.「自然にたいする畏れ」という観念それ自体の背後にある進化心理的な基盤を考えれば,それを安直にもちだすことは最初からできない相談だ.それは再評価されるようなものではなく,ずっと昔からビルトインされていて,その意味で中世的心性(もっと遡ってもいいだろう)はわれわれの中に生き続けているのだから.

本書は4年前の前著:山本義隆磁力と重力の発見(1, 2, 3)』(2003年5月22日刊行, みすず書房ISBN:4622080311 / ISBN:462208032X / ISBN:4622080338目次書評1書評2書評3)に続く,科学史の大著だ.前著を読み通すだけの体力のある読者ならば本書もきっと楽しめるだろう.

三中信宏(19 August 2007)